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不登校と「普通」と反論
図書館で目に留まるけれど、自分の不登校がこの本の不登校で読み換えられてしまいそうで、表紙の先に踏み込んだことはなかった。
「不登校でも大丈夫」。
それを、そろそろかもしれないと思って、手に取った。
ほかのものを取り込んでも混ざらなくなり始めた後、
薄まる前に。
開いてみると、同意することもあったし、
小さな引っかかりをおぼえた部分もあった。
それを、言葉にしていく。
まず、「不登校でも大丈夫」というメッセージに、僕も深く同意する。
世の中には学校に行っているひとの方が圧倒的に多く、
行かずに生きているひとに出会う機会は少なく、
行かなければあれが難しくなりこれができなくなり、最終的に路上で死ぬんじゃないかと思ったとしても、驚くことではないと思う。
けれど、そうなるわけでもなさそうだ。
枠からはみ出しては生きていけないと感じていたけれど、広い世界の中での自分が思う「常識の枠」など本当に小さなもので、一度や二度その枠からはみ出したところで世界から零れ落ちてしまうようなことは起こり得ない。
僕は通信制高校に入ったら「普通」から外れるのだと思ったことがある。
けれど3年生になって、大学受験をして、この春卒業し入学する模様である。
たしかに毎朝登校して集団授業を受けることはなかったけれど、僕にとってそれは、この高校で過ごしたのだから他の高校での学校生活がないのは当たり前だという感覚で、
「普通」は、自分に合わせて広がっていくのかもしれない。
通信制高校が自分にとって「普通」になったように、通信制高校を「普通」だと思っているひとはたくさんいて、
通信制高校以外にも、世の中には数えきれないほどの「普通」があって、
ちょっとやそっとじゃ、待ち受ける「普通」から逃れることはできないのではないだろうか。
「AかBかCの中から選ぶ権利」はなくなっても、「それを選ぶ世界に行かない」という選択、新しく「AとBの間にあるものを見いだす」選択、「まだないDをつくりだす」選択は誰に憚ることなくいつでもできます。
たしかに、学校に行かなくなる前に想像していた方向に進むことは難しくなった。
けれど別の方向に、より惹かれるようになった。
自分のもっている「常識の枠」からはみ出そうとする自分に合わせて「常識の枠」は広がり、
僕は今の自分の行きたい方を向いて歩んでいる。
この本には、こんな一節もある。
社会に出ることはきっと、多かれ少なかれ他の人と合わせて調和をつくり、一つの物事を為していくということで、学校の中で自分を合わせていくことはそれを学ぶために必要なこととも言えます。そう出来ないことを甘えだと取られても仕方がないとは思うのですが、それが分かっていてもなお、私は今、この時の自分の選択にとても感謝しています。
自分の不登校を肯定的に捉えている点では僕も著者の末富さんと同じだが、
協調できないことを甘えだと取られても仕方がないとは、僕は思わない。
ひとは一人一人、能力が違う。
その違いは上下ではなく、簡単には捉えられない、多様さなのだと思う。
多くのひとの「常識」ではできるはずのことが、たまたま自分にはできなくても、そこに自分の甘えはない。
がんばってもどうなるものでもない「できなさ」が、人間にはあると思う。
余談だけれど、受験が終わり、単語帳を鞄から抜いてこの本を入れ、電車の中で「ミラノのマダム」の章を読んでいるとき、豊かだ、と思った。
こういう読書をして生きていきたいと思った。