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【小説】時間の概念と隣町のコロッケ (サラとの1か月間~13日目~)
前回までの話
1. 傷に触れない (サラとの1か月間~6日目~)
冷蔵庫の奥底には、しおれたプラムが転がっていた。
路肩でしゃがみこむ老婆のように萎れていて、冷たい。指先に力を入れると、自らの役割を思い出したかのように、薄皮の割れ目から汁を吐き出す。
甘い香りが鼻先に漂う。
過去に付き合った女性を思い出した。
顔や名前は覚えていないのに、彼女の香りだけは思い出せる。時の流れは不思議だ。自分勝手で横暴だけど、たまに優しさを示す。
「この前、主任が言っていたよ。この世で一番大切なものは“時間”だって。平等に与えられて、有効に使える人間が幸福を手にするんだって」
足の爪を切っているサラは「ん……」と適当な返事をした。ぼくの貸したタンクトップは緩く、アイスクリームのような小ぶりの胸をのぞかせていた。
「きっと、どこかの自己啓発本の受け売りだろうね」
ぼくは話を続けた。
「でも、金持ちの方が“使える時間”は多いよな」
明らかに興味のない様子をみせているサラを横目に、ぼくはつぶやいた。
「なんだか……“時間”について考えている“時間”が、一番“時間”の無駄のような気がしてきた」
ぼくの言葉に彼女は吹きだす。
「早口言葉みたい」と顔を上げて、大きな目を軽く細めた。
「“時間”の概念なんてどうでもいいけど、その考えは面白いと思うよ」
年下なのに、たまに上から目線で評価してくる。
「そんなことよりさ……」と、爪の切りカスが散らばっている地域情報誌を指さす。 役所が勝手に作って、勝手に郵便受けに入れてくるヤツだ。
「ここのコロッケおいしそうだよ」
覗き込むとコロッケの写真が載っていた。隣には色あせた看板を抱えた店の前に立つ中年女性。店主なのだろうか。小太りで満面の笑みを浮かべていた。隣町の商店街で売っている何の特徴もないコロッケ。一つ85円。5円単位の値段に、採算の苦労が感じられた。
「わたし、肉屋でコロッケを買ったことない」と満面の笑みを近づけてきた。
彼女の唇は、プラムとは違う匂いがした。
夕方になって微かに風が流れるようになった。
「せっかくだから歩いて行こう」 オレンジ色に染まるベランダの前で、サラはタンクトップからTシャツに着替える。
「でも、まだ暑いよ……」と渋ってはみたが、85円のコロッケを二つ買うのに電車賃を払うのもバカらしいような気がした。
アパートから肉屋までの道筋をスマートフォンで調べていると、サラが覗き込んできた。彼女はスマートフォンを持っていない。仕事を辞めると同時に解約したらしい。 「友達とか前の職場の人から連絡が来て、めんどくさいんだよね」 22歳の女性とは思えない言葉に、ぼくは苦笑した。
玄関を開けると大きなクワガタが足元にいた。ぼくたちは踏みつぶさないように外に出て、そっとドアを閉じた。
夕暮れだが、アスファルトに溜まった太陽の熱が国道沿いに漂っていた。少し歩くだけで背中から汗が流れる。
「やっぱり、もうちょっと夜になってから行けばよかったかもね」
ぼくの言葉に、サラは「あの肉屋、7時で閉店しちゃうから間に合わないよ」と返す。
料理や洗濯といったぼくが頼んだ家事はすぐに諦めるクセに、どうでもいいことには異常なまでの執着心を持ち合わせている。
彼女の前髪は汗で額に貼りついていた。
青色のTシャツも濡れて、所々が紺色になっていた。途中、コカ・コーラの自販機で買ったミネラルウォーターを飲みながら、何度も「暑っつ……」と、夕焼けに悪態をつくようにつぶやく。
会社員時代に得意先からもらったピンクのディオールのバックをぶら下げていた。
これを見ていると同じ職場で働いていた頃の彼女を思い出す。人懐っこい笑顔を保って、控えめだけど耳にまとわりつくような高い声でお世辞を並べていた。あの頃、汗一つかかないような女性だったのに。
「これまで接待やデートで散々いいものを食べてきたんだろ? どうして85円のコロッケのために、そこまで頑張れるの?」
ぼくの問いに「えっ?」と煩わしそうに返す。
大きく肩を上下させて呼吸をしてから「ちょっとくらい苦労して手に入れたモノの方が美味しいよ」とTシャツの裾で顔を拭った。
白く小さいへそが露になるのも気にせずに。
「銀座で食べたお寿司とかローストビーフとか……成金たちのエサも美味しかったけど、でも違うんだよね」
優越感に浸った顔をこちらに向けてくる彼女に「俺には分からない」と首を振ってみせた。
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肉屋に着いたとき、ショーケースにある総菜は、ほとんどなくなっていた。チャーシュー、から揚げといった手書きの品名の中からコロッケを探す。
「コロッケありますか?」 背中越しに聞くサラの必死な声に吹き出してしまいそうになった。
地域情報誌に載っていた中年女性が店の奥から出てきた。
「ごめんね。売り切れちゃったの」
サラは空を仰いだ。僅差で負けたテニスプレイヤーのように。静かに目を閉じて、首を微かに振る。
店員はその様子を見て、少し考える素振りをみせた。
「何個いる?」
ぼくの肩を強くつかんで「売ってくれるんですか?」と前のめりになる。
「私が持って帰る分でよければ、少しあげるよ」
「おばちゃん、ありがとー」と甲高い歓喜の声をあげる。
社交辞令でも、その場しのぎでもない。サラの心から湧き出るような、お礼の言葉を聞いたのは、この時が初めてだった。
白い油紙に包まれた二つのコロッケを受け取ると、サラは何のためらいもなくディオールのカバンに突っ込む。店主は眉をひそめて不可解な表情を浮かべた。
「いい娘ね。大事にしなよ」
去り際のおせっかいな言葉に、なんと返したらいいか分からず、曖昧な笑みを浮かべて会釈した。彼女は大事にされることを嫌う人間なんですよ、と心の中でつぶやきながら。
帰り道、薄い雲から大粒の雨が降った。2、3滴、手の甲に当たったかと思ったら、すぐに乾いたアスファルトを黒く染めはじめた。日傘さえ持たないサラは、Tシャツの腹部分でコロッケの入ったカバンを覆った。
「ようやく涼しくなってきた」と余裕のある笑みを浮かべていたが、激しく降り注ぐようになると不貞腐れたように口をつぐんだ。
「雨宿りしようよ」 シャッターの下がっている文具屋の軒先を指さしたが、彼女は首を振った。
「この時期の雨は、すぐ止むよ。それまで……」
「いいよ。わたしだけ帰るから」
攻撃的な口調になった彼女は、足を速める。何か気に障るようなことをしただろうか。いや、そんなことはない。一人で不機嫌になっているだけだ。ぼくは、アパートのスペアキーを渡したことを後悔しながら彼女の背中を追った。
惨めなぐらいに濡れた身体で、アパートに着いた。ぼくが先に部屋に入ると、玄関先にたたずむサラにバスタオルを放った。彼女はその場で衣類を全部脱ぐと、足の裏を拭かずにベッドにもぐりこんだ。今晩中にコインランドリーに行った方がいいかもしれないな。濡れた下着を見ながら思った。
シャワーを浴び終えても、彼女はベッドでブランケットをかぶったままだった。丘陵のような腰の部分に手を置くと、猫のように身体をビクつかせる。
「具合悪いの?」と声を掛けると、少し出ている頭頂部が横に動いた。
「洗濯してくるね」
微かにうなずいたような気がした。
「東京の雨って、排気ガスとかいっぱい吸っていて身体に悪そうだから……シャワー浴びておいた方がいいと思うよ」
適切な言葉か判らないが、芋虫のように丸めた身体に声をかけてから部屋を出た。
コインランドリーで乾燥を待っている間、ぼくはスマートフォンでSNSを開いた。
学生時代の友人が、青い海や畔に打ちあがる花火を掲載している。胡散臭い勉強会に参加している人もいた。
8月の週末。ぼくは、突然転がり込んできた会社の元後輩と隣町までコロッケを買いに行った。
帰りは雨に降られた。それだけだった。
時間の浪費とは、こういうことをいうのかもしれない。そんなことを考えながらも、大切な一日であるような気もした。
コンビニで買った2本のビールをぶら下げながらアパートに戻ると、サラはドライヤーで髪を乾かしていた。ボディソープの香りが部屋に漂う。
「あっ、おかえり」
先ほどまでの不機嫌さも、悪びれた様子もなかった。
ローテーブルの上には、二つの油紙があった。
「電子レンジで温めた方がいいかな?」
「いや、いいよ」
触ると少し湿っていて微かな温かさがあった。それはサラのお腹の温もりなのか、コロッケ本来のものか分らない。
ぼくは、その横にビールを置く。満足そうにコロッケを頬張る彼女を見て、こんな時間は長くは続かないだろうと思った。
優しい時間は驚くほど短い。
「今度、海に行こうよ」 サラは片膝を立てながら、缶ビールを開けた。
「貝殻が欲しいの。ピンクの」
「なんで?」
「いいじゃん。べつに」と音を立ててビールを飲みはじめた。
また、彼女の思い付きに付き合わなければならないのか。軽い疲労感を覚えると同時に、胸の奥で何かが溶けるような甘い優しさを感じた。
翌日、ぼくは初めて会社をずる休みすることになる。会社の最寄りの駅を通り過ぎて、柔らかな潮風が流れる海へ向かった。
機会があれば、またここで、その話を書こうと思う。
了
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