【小説】白い世界を見おろす深海魚 69章 (消えていく存在)
【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(マルチ)ビジネスを展開する企業『キャスト・レオ』から広報誌を作成する依頼を高額で受けるが、塩崎は日々の激務が祟り心体の不調で退職を余儀なくされる。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田はどちらも理不尽と欲望に満ちた社会に棲む自分勝手な人間で構成されていることに気づき始めていた。本当に純粋な心を社会に向かって表現できるアーティストのミユは、彼らの利己主義によって黙殺されてようとしている。
傍若無人の人々に囲まれ、自分の立ち位置を模索している安田。キャスト・レオの会員となっていた塩崎に失望感を抱いきつつ、彼らの悪事を探るため田中という偽名を使い、勧誘を目的としたセミナー会場へ侵入するが、不審に思ったメンバーによって追い出される。諦めて会場をあとにする安田の元に騙されてセミナーに出席した男が近づき、これまでの経緯を話すことを告げられる。話を聞こうとするが、彼の行動を怪しんだ会員が跡をつけて拉致。これ以上の詮索を止めるよう脅しを受ける。
恐怖よりも嫌悪感が勝っていた。
安田は業務の傍ら悪事を公表するため悪戦苦闘しながら記事作成をする。しばらく連絡が途絶えていた塩崎から着信があったのは、年の暮れの深夜だった。
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69
塩崎さんの「久しぶりね」という声。
「久しぶり」と、ぼくはオウム返しをした。
沈黙が漂う。
携帯電話を耳に当てたまま歩く。等間隔で並んだ外灯は先端を曲げ、覗き込むようにしてぼくに光を当てていた。
「どうしたの?」と、急かすような言葉しか出てこなかった。
「うん、また会いたいな……と思って」
やけにゆったりとした声が響く。
今ではお互い違う生活をしているせいか、体内時計のスピードがズレてしまったようだ。ぼくは早く、塩崎さんはゆっくりになっている。
彼女の短い呼吸音が聞こえた。小さく、洞窟の奥底に響く水滴のような。
どうしたのだろう。
彼女は、ぼくを求めている。それは嬉しいことであるはずなのに……。
悔しいぐらいに、疲労のせいでなんの感情も湧かなかった。
「悪いけど、年末は忙しいんだ。塩崎さんも去年の顛末を知っているよね?」
受話器の向こう側で、空気が揺らいだのが分かった。
「そうだったね。ごめんね、無理言って」と、明るい声がした。
でも、喉の奥から無理やりひきしぼったような、その場しのぎの声だった。
「会社が年末休暇に入れば、予定が空くよ」
頭の中でカレンダーを思い浮かべた。29日が今年最後の出社日だから、その次の日なら大丈夫だ。年末は実家に帰らないことにした。家族がうるさいだろうが「仕事が入っている」と適当なウソをつくつもりだった。
塩崎さんは「ごめん」と呟いた。
「29日は、わたしが実家に帰っちゃうの。ちょっと親に大事な話があって……」
「そっか」とだけ、ぼくはつぶやいた。
「じゃあ、次に会うのは年が明けてからかな」
「うん。また連絡するね」
彼女の声は細く揺れていた。小さく鼻を啜る音。
「どうしたの?」
ぼくは、さっきと同じ言葉を繰り返した。今度は急かすためではなく、彼女の感情を伺うために。
「わたしね……」
声の震えが激しくなる。隠そうとしていた感情が爆発する直前の震え。
「わたしね。本当にバカだよね。自分でも嫌になるくらいにバカで弱いよね」
小さいけれど、痛々しいほどの自虐的な笑い声。
「後悔してる。なにもかも」
そう言った後で、嗚咽が聞こえた。
「今から会えないかな」
衝動的に、その言葉を口にしていた。タクシーを捕まえれば、30分以内に彼女の住んでいるアパートまでたどり着ける。何ができるわけでもない。でも、今すぐに彼女に会わなければ後悔することになる。そんな気がした。
「ありがとう」という声が嗚咽の隙間から聞こえてきた。呼吸が整うまで、携帯電話を耳にあてたまま、しばらく待つ。
「ゴメン。ちょっと感情的になったみたい。本当にゴメン」
ゆっくりと細く、息を吐く音。
「大丈夫よ。仕事で疲れているんでしょう? 無理しないで。安田君の気持ち、すごく嬉しいよ。そう言ってくれただけで充分だよ」
遠くからサイレンの音が聞こえた。一瞬、頭のなかが赤く光る。掴みどころのない不安が胸の奥に沈殿していく。
「わたしは大丈夫だから。また、年が明けたら会おうね」
「じゃあね」という言葉で電話が切られた。少しの間、不通になったことに気づかないでいた。白い光を発したディスプレイを確認して、ポケットに仕舞う。
塩崎さんのなかで、ぼくはどういった存在なのだろう。携帯電話を閉じながら考えた。いつの間にか止めていた脚を、再び動かす。靴底とアスファルトがぶつかる音がやけに響いた。
彼女の声が胸の奥に突き刺さっていた。鈍い痛みのせいか目の奥が熱くなる。一筋だけ顔をなでた涙は、寒気に晒された。それだけの涙だったが、久しぶりに流した。でも、なんで自分が泣いているのか分からなかった。
ぼくは、たくさんの疑問に取り囲まれている。どうせ解決できない疑問。
それらを放棄することもできる。目の届かないところに追いやってしまえば、きっと楽になれるだろう。でも、一緒に大事なものまで亡くしてしまいそうな気がしていた。だから、苦しくても性懲りもなく大事に抱えてしまっている。
財布の中身を確認してから、大通りに出た。タクシーを拾い、板橋駅方面に向かう。
『サンディービーチ板橋』に着くと2階の角部屋のインターフォンを鳴らした。なんの反応もない。扉横の窓は暗く、外と同様に冷たい空気が流れているようだった。携帯電話にかけてみたが、彼女は出ない。寝てしまったのだろうか。それとも出掛けているのだろうか。
でも、こんな時間に……どこへ?
アパートの前で30分ほど待ってみたが、塩崎さんとは会えそうにもなかった。時間が経つにつれて、自分が採った行動に対しての後悔が募った。
どうして、こんな失敗ばかりしてしまうのだろう。
「俺もバカだよ」
彼女の部屋を見上げて、苦笑した。どうしようもない自分に。
つづく
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