![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/111752561/rectangle_large_type_2_d383d83ed2189c0c53cbda6b1565a30e.png?width=1200)
永遠に私にとっての青春そのもの、「時をかける少女」
7月13日はナイスの日。「時をかける少女」の再上映へ行った。
テレビやパソコンでしか観たことのなかった作品を映画館の大きいスクリーンで満席の観客と一緒に観ることは、不思議で、新鮮で、心躍る感覚だった。
まず、これまで私にとってこの作品がどういう作品だったのか書きたいと思う。
私は金曜ロードショーを毎週見るくらいテレビをよく見る(というか、見させてくれる)家で育ったから、「時をかける少女」は、初めて観た中学一年生のころから自分でレンタルして観た回数も合わせると、4,5回は絶対に観たことがあったと思う。
中高と女子校に通い、好きな人も出来なくて、部活と勉強のほかには何もない日々を送っていた私は、アニメーションやマンガで描かれる、理想的な青春や恋にとても素直に憧れていた。
もちろん、「時をかける少女」が描く、切ないほどにまばゆい青春の威力にも一発K.O。
観た後は毎回1ヶ月くらい本気でタイムリープしたいと思っていたくらい‥‥
この作品に対する好きという気持ちは「真琴になりたい」という単なる憧れだけではなかったのだろうけれど、とにかく好きが高じて、舞台となった上野の東京国立博物館や、荒川の河川敷に一人で行ったりもした。
しかし、大学生になってから初めて観たとき、これまで夢中になって観てきたはずの作品をどこか遠くから投げやりな態度で観ている自分がいることに気付き、もしかしてみずみずしかった感性が死んできちゃったんじゃないか、と怖くなった。
それはきっと紛れもない事実で、高校生だった頃の感性ではもう物事を考えることはできない。登場人物たちの年齢や環境を追い越してしまったいま、この物語を、自分にも0.001%の確率が残されていると妄想しながら、羨望の対象として観ることはもうできない。じゃあどうこの作品を観ればいいんだろう?という戸惑いがあったのだ。
最後に観た時の思い出がそんな風だったから、
今回、この作品を映画館の大きいスクリーンや立派な音響で体験したら、また新しい感情に出会えるんじゃないかと期待していた。
実際、映画館で観ると、一つ一つのシーンがくっきりとした輪郭と強いパワーをもって迫ってきた。
ストーリーはもうかなり憶えていたけれど、それでも新鮮に美しく映った場面をいくつか。
告白を無かったことにしたあと、千昭が友梨と接近していくのを見る真琴の表情
心当たりがあまりにもありすぎるというか、真琴の気持ちが手に取るようにわかった。無かったことにしたのは確かに私の方だけど、私のこと好きだったんじゃないの?もういいの?って。
でも、人が勇気を振り絞って伝えようとしてくれた気持ちを、あたかも当たり前にあるもののように扱ったんだから、結果自分が尊重されなくなることは当たり前なんだ。都合よく人の好意を流しておきながら、いざ相手の好意が別の人へ移動したら勝手にもやついたり、不貞腐れていたりした自分が恥ずかしくなった。
このことに気づいた真琴が屋上まで駆け上がっていって泣きじゃくるシーンは、すごくすごく切ない。
もう千昭は戻ってこないしやり直せない。行き場のない後悔を爆発させて泣きじゃくる真琴の声が、誰もいない屋上に響き渡っていて、大きすぎる入道雲と青すぎる空、鳴りやまない蝉たちだけがそれを聴いている。
最後の1回のタイムリープをした真琴が、千昭のもとへ走っていくシーン
20~30秒くらいあった気がする。ただ真琴があえぎながら千昭のもとへ全力疾走するだけのこのシーン。
後悔の残る別れ方をした千昭に最後にもう一度会える。それは同時に「真の別れ」を意味するけど、でもそんなのいいから、早く千昭に会いたい、グラウンドまで走っていかなきゃ、っていう真琴のまっすぐな気持ちが、画面のこちら側を洪水させるほどに溢れている。
そりゃあすごく会いたいよね、という共感とともに、真琴のおばさんの台詞を思い出す。
「でも真琴、あなたは違うでしょ。待ち合わせに遅れてくる人がいたら、走って迎えに行くのがあなたでしょ」
真琴の痛いほどの真っ直ぐさ、力強さに圧倒される場面だった。
「お前みたいなバカにチャージされてよかったよ」という千昭の言葉―「愛すべきバカ」というヒロイン像
ハッとした。これまでアニメやマンガで描かれてきたヒロインは、いつもではないにせよ、救いようもなくバカで単細胞だったり、お人よしだったりする。
初めて観た中1のときから、中高生の間ずっと、そして今だって、できることならタイムリープしたいと思っている。そんなわくわくすることが私にも起こればいいって、主人公になりたいって。
けれど、私のような外面良い子ちゃんにチャージされても面白い物語になるはずがないことはわかっている。私はもっと臆病な性格だし、もうだいぶ勉強しちゃったし、いわゆる「愛すべきバカ」にはなれない。
自分には絶対に起こり得ないからこそ、魅力的なキャラクターである真琴に劣等感を感じている自分がいる。
こういう主人公像は、これまでのメディアが作り上げてきた固定的なものだとしても、アホみたいに真っすぐで、一度走りたくなったら止まれないような真琴が私は羨ましい。
ヒロインになれるのは、自意識の膜に覆われた人じゃなくて、外部からの視線を取り入れずに「自分が自分でいること」を自然とできる人で、そんな人だから物語はすごく面白く、魅力的になる。
消費者が広告などに「憧れ」より「共感」を求めるようになっている今、映画や小説のヒロイン像も多様化してきているけれど、私は真琴みたいに輝いている主人公を見ると、まぶしくて切なくて、でもワクワクしてくる。純粋に、いいなあって思う。
ラストの河川敷でのシーン
何度も観ていて展開も知っていると、さすがに「来るぞ・・・・・・・」と思わず構えしてしまうほど有名なシーン。
夕焼け前の、少しずつ暮れゆく空のグラデーション、大粒の光がダイヤモンドのように川面に反射してきらめく、二人の最後の時間。確かなのは、もうすぐ別れなきゃいけないということだけ。
「真琴、最後に言いたいことがあるんだけどさ」
「なに?」
「お前、急に飛び出して怪我とかするなよ」
「はあ?最後の最後にそれ???」
「心配してやってんだろ」
ここら辺の二人のやり取りはすごくじれったい。
でも、別れたあと真琴が辛くならないようにというやさしさで、やっぱり千昭は「好き」って言ってあげられなかったんだと思う。
回りくどいけど確かで、切実な千昭の親愛に満ちたことば、そして真琴の涙。
「未来で待ってる」
「すぐ行く。走っていく」
私は、やっぱりこのシーンが一番好きです。だってありえないほど美しい。それ自体でとても有名なシーンだけど、これまでのシーンがあったから一層際立ち、一番の威力を発揮していたように思う。何が起こるかも、セリフがどんなかも知っていた私でも、気づいたら泣いていた。
おわりに 心の柔軟体操の話
映画のあと、ひょんな出来事に対して、一緒に観に行った友だちが「映画ではなかったことにしちゃいけないって言ってたよ」って笑いながら私にツッコミをいれた。そして私は半分戦慄した。
あれ、いつから私は感動だとか心の揺れ動きを、その場限りのものにしてしまえるようになったんだろう。
映画はすごくすごく良くて、深く感動したはずなのに、私は普段の生活に戻るために、無意識に自分の感情にけりをつけて、心の中央から移動させていたのだ。それを無かったことにさえしていたかもしれない。
真琴になりたいくせに、いつも通りの、意気地なしで気にしいの自分に戻って安心していた。
誰かが、数えきれないほどの人が思いを込めて世の中に送り出した作品には、「好きだ」と思ったものには、もっとバカみたいに正直に影響を受けたい。
心がすっかり凝り固まって、簡単には動かなくなってしまわないようにするには、日々、セーブなんかしないで何かに思い切り揺さぶられてみる「心のストレッチ」的なものが必要だ、ひとり静かにそう思う。
これからも、「時をかける少女」は私にとって本当に、大切な映画です。
来年も、社会人になっても、いつか母になっても、自分がこの映画を愛していると心から思えることを願うばかりです。
''time waits for no one''
まぎれもなく「今」が、ほかの何よりも大切
お読みくださりありがとうございました。