パスタくらい気ままに作らせてくれ
調理が好きだ。
台所に立ち、欲望の赴くままにわがままに包丁や火を使う時間は、曲がりなりにも自立した大人としてのわたしの自負を最も強く支えてくれる。
台所でわたしがするのはあくまでも調理で、わたしにとっての調理とは、食材のかたちや温度を変えていい感じに食べられるようにすること。
言葉が、料理、となるとなぜか尻込みしてしまう。一文字違うだけなのにおかしいのだけれど、料理? いやいやそんな大それたことはちょっと……とあとずさってしまう。
なんだろう、料理好きっていうとすごく本格的なものを作りそうというか、もう、レシピそのものを作れるような人だけがそう言っていいみたいな空気があると思うのだけど、気のせいかな。
ほら、あのひと料理上手なんだって、とうわさされるひとの食卓にもし招かれたら、なんかとってもきれいに盛り付けられた手の込んだメニューがずらっと並べられていそうじゃないですか? 色どりゆたかな。
少なくとも、わたしがごはんを担当した日にありがちな茶色一色の「ぶっこんで煮ました定食」は
出ない気がする。
わたしが料理に感じているハードルは、むかし母に言われたことに由来するかもしれない。
10代のころ母と話していたときに、何かの流れで「料理は好きだよ」と言ったことがあった。毎日台所に立つわけでもないわたしがそう言ったことを、母はあからさまに笑った。
「あんたのしているのを料理とは言わない。料理っていうのはもっと凝ったもののことだ」
たしかに、わたしがしていたのはせいぜい、味噌汁やスープを作ったり、トマトソースをこしらえてスパゲッティをゆでたのに絡めてみたりと、ほんとうに普段の自分の(ついでに家族の)食欲を満たすために食事を作ることくらいだった。
それならば、母のしていたことこそが料理なのか? と訊くと、それも違うとのことだった。母はちょっと考えて、いや、私も料理をしているとは言えないと思う、と言った。
母は当時、家族の料理をほとんど毎日欠かさずに作っていて、わたしにとっては全部全部、それはもうおいしいものだったのに。
わたしがその味で育ったからそう感じるのかもしれないけれど、客観的に見ても、彼女はけっこう手間のかかるものを手早く仕上げて食卓に並べてくれていた。
あじの南蛮漬けみたいに、下処理が必要な上に揚げの工程があるものや、グラタンやら、わらびのお浸しみたいに実は手のかかる副菜まで、フルタイムの仕事から帰ってきたあとでも。
あれやってても料理とは言えないんだ?
わたしはびびって、そのときから料理のハードルがだだ上がりした。
でも、あの頃の母のように毎日ではないにしろ、日々の晩ごはんをそれなりに用意する身になってみると、彼女の言わんとしていたことがなんとなくわかる。
われわれが台所でしているのは、テレビの料理番組で料理人がするような立派で整った行為ではなく、もっとこう、根源的な欲求を充たそうとするざっくばらんな動きなのだ。
という、へりくだるようでいて実はそうではない、自負のようなもの。
金銭的な意味ではなしに自分を食べさせていけること。
レシピを見ずに冷蔵庫の中身を見て、これとこれでこうなったらいいなあと、浮かんだイメージに向かって食材を変化させてみる。調味料と熱の力で。
それでイメージ通りになったら嬉しいし、ならなくても美味しかったらラッキーだし、最悪そんなに美味しくなくても、食べられないほどまずいことにはそうそうならない(まれにはある)。
その営みのしっくりくる呼び名は、わたしにとっては調理だった。
レシピをぜんぜん見ないわけではない。
殿堂入りのレシピ本が何冊か本棚の専用のスペースにおさまっていて、そこはわたしにとって神棚のように特別な場所だし、行きつけのレシピサイトも複数ある。とくにパルシステムのだいどこログはレシピの文法がシンプルでわかりやすくてすごく重宝している。
だけど、いつもレシピとにらめっこしながらごはんを作るのは、疲れてしまう。
だから何も見ないで調理する回をちょいちょいはさむ。本も画面も見ないし、たいして考えもしない。カラダに調理をゆだねてしまう。カラダは台所で水を得たように動きだす。楽しー! 自由だ!
そういう回にできあがることが多いのは、具沢山の汁物(神様は汁物の具に何も禁止なんかしてない)と鍋物(昆布だしを吸いしものはだいたい何でも最高)。あと、なんといってもパスタだ。
パスタはいい。いつもわたしを解き放ってくれる。
つぶしたにんにくを油で泳がせた時点で勝利はだいたい決まっている。
その油を麺に絡めて塩をふるだけでもよいし、野菜室にあるものを好きに入れて一緒に炒めれば、彩りも栄養も爆増しだ。その日の気分に合う調味料で風味をつけるのもよい。しょうゆでもポン酢でもナンプラーでも。
そうしてできあがったパスタは、どんなにおいしくても一回限りのものだ。どうやって作ったのかぜんぜん思い出せないのだ。二度と出会えない味をかみしめて食べる。イマイチだった場合でも「ま、二度と出てこないしね!」と子どもに納得してもらえる(のか?)。
わたしの夫はレシピにとても忠実にごはんを作る人で、もうすでに頭にレシピが入っているいくつかのメニューを除いては、調理する手元にレシピを欠かすことがない。レシピを決めるところが最初の仕事で、そこで指定されている材料が足りなければ買いに行く。そしてスマホに表示させたレシピを調理台に置き、繊細に仕上げていく。できあがるものはいつもとてもおいしい。安定感がある。子どもにも「お父さんのあのパスタ」などと呼ばれる定番のメニューがある。あの人のあの味があるって素敵だなあと思う。
一方、わたしの競技は「調理・自由形」である。食べた人にこれまた食べたい! と言ってもらえたところで手順を何も覚えていないので、残念、この味は二度と食べられませーん。と言ってはブーイングをくらったりする。わたしはそのブーイングを誇らしげに受け取り、二度と食べられないなんて悲しいとまで言ってもらえる食事をまた作れたらいいなあと、他人事のように願う。そればっかりは巡り合わせだからね。
最近では子どももわかっていて、フライパンに油を注ぐわたしの背中に「今日はレピシ(※レシピ)あり? なし?」と尋ねてきたりする。
大抵「なしだよー」とわたしは答え、「おかあさんの適当パスタね」と彼は了解する。素敵な子。
宿題に取り組む子どもに背を向けてえらそうにフライパンをふるっていても、わたしって本当に無能よねと思うことがある。これはしみじみ思う。
冷蔵庫に食材はたくさんあってもそのうちわたしが育てたものはひとつもない。
おいしい野菜を作ることもできなければ魚を獲るでもなく、鶏をしめたこともない。
気まぐれにベランダでトマトなどを育ててみたところで、まじで勝手に元気に実るので、本当に育ててんのは土と水と光じゃんって唖然とする。
本当には何も生産できないところのわたしが、水道をひねってコンロを押し回して湯をわかす。食事を作る。作ったような顔をしている。無能そのものの動きである。
無能は無能なりに楽しくやらせてもらってます。
パスタくらい気ままに作らせてくれ! ロックンロールだぜ! と台所で大きめにつぶやくわたしの無駄な動きが多い背中に「いいよー」と家族の声がかかる。