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最近の気持ち
以前Twitter(現X)に「自分は愛されていなかった訳ではない。愛を消化する器官が壊れてた」と書いた記憶がある。
だいぶ若くて痛々しい時期のツイートだけれど、あながち間違いではない。もちろん厳密にはちっとも正しくないかも。
愛されていることと愛を実感することは同義では無い。
そんな当たり前のことも、外的な囚われのあぶくに日々埋もれて、わからなくなる。そして、ある夜、頭のプリンタが紙詰まりを起こす。私たちのあるあるです。
子が愛を実感することは、存外難しい。親になった経験がないからだろうか。正直まだわからない。
とにかく、若者は経験の浅さゆえに自分自身に慣れておらず愚かなので、人の愛を受け取る器官を、認知の歪みで半ば依存的に捻り潰したりするのかもね、とぼんやり仮定している。
昔毎日やっていた「私は愛されていたよ」と自分に言い聞かせるのは、得策ではなかったかもしれない。
その時間はつらかった。思い返したくない記憶の数々が、それを否定しようと、鳩尾のあたりでもがくのだ。
大切なのは感じ方であり、事実ではないのかもしれないと、当時もやっぱりどこかで察してはいた。
鄙びた盆地を染める朝焼け、親友とふたりで見はるかした静岡の海、洗濯物のにおいとか。そういったちょっと苦しいけれど幸せな感覚を、1日の終わり、日記帳に一枚一枚重ねていくのが私には合っていたのかもしれない。
そんな記録が、たぶん、グレート・ギャツビーがデイジーのために降らせたシャツの山くらいになったころ、
わたしは愛と思しき温度を実感しているのだった。
同時に子供の罪深さも、少しだけ理解した。
人間は不完全で理不尽だ。
人間は酷薄で嘘吐きで救い用がない。
すべからく。
それらも引っくるめてざっくばらんに愛するために、人には罪が必要なのかもしれない。
だから全て問題ない。愛するためにこの罪深さを与えられたと思えば。
そんな感じで生きてる、この頃は。
眠くて。適当ですみません。