周
粒あんさんの好きな記事をまとめました
なるべく思ったとおりのことを書きます。
以前Twitter(現X)に「自分は愛されていなかった訳ではない。愛を消化する器官が壊れてた」と書いた記憶がある。 だいぶ若くて痛々しい時期のツイートだけれど、あながち間違いではない。もちろん厳密にはちっとも正しくないかも。 愛されていることと愛を実感することは同義では無い。 そんな当たり前のことも、外的な囚われのあぶくに日々埋もれて、わからなくなる。そして、ある夜、頭のプリンタが紙詰まりを起こす。私たちのあるあるです。 子が愛を実感することは、存外難しい。親になった経
「パパのほうのおばあちゃんに似ちゃったね」 「性格がパパに似てきたね」 「頭の鉢が開いてる、パパに似ちゃったね」 わたしの父にまつわることばは、常に消極的なニュアンスを含んでいた。 父。 様々な人種が混ざった、端正な顔。 近所の子達が羨ましがった。長い髪を後ろでしばって、いつも、やたら大きなTシャツと、バスケ部みたいな短パンをはいていた。 気分の良い日はキーボードを弾いた。 ドナルド・フェイゲンか、ビリー・ジョエルをよく通る高い声で歌った。 小さいわたしをスケボーに
怒りに任せて家を飛び出すと、大抵は一つ目の信号あたりですでに正気に戻っている。 ただ引っ込みがつかぬから、なけなしの意地を張って、ブックオフやゲームセンターで「さすがにあいつらは心配するかしら?」と思う程度に時間を潰して帰るのが定石だろう。ドラッグストアの店内を無意味に歩き回りながら、宗太はほんの30分前の憤怒をいかに持続させ、あの理解の無い両親に後悔させるか、思案に暮れていた。怒りが持続すれば、腹も減らないだろうし、ゆえに金もむやみに使わずに済むからだ。しばらくノイローゼ