鏡の中の花 ヘンリー・ジェイムズ「デイジー・ミラー」読了感想2(ネタバレ!)
長かったのと、ネタバレ回避のために記事を二つにわけました。
この記事は超絶ネタバレですので、ぜひ先にどうぞお読みください。
ぜひ!
「読了感想1」はこちらです。
投稿してから気がついたが、記事のリンクも割と内容が見えてしまいうっかりネタバレをぶちかますので、気を付けないといけないなと思いました。(追加文)
* * *
読後は、煙に巻かれて何が何だかわからない。
えっ、そういう終わりかたなの?
そこでぽろっと?
言葉一つも交わさずに??
このような唐突かつ強引にも見える突然話をぶった切る終わり方、雑誌の連載で打ち切りされたような形の幕引きは一昔前にはよくあることだった。
母が好きだった影響で見ていた古いフランス映画には特によくあって、鑑賞後は完全に目が点になっていた。
謎が謎を呼んだ挙句に謎で終わる。
呆然としながら昼休みを終え、帰り道を歩いた。
この終わり方は未消化になるよ。
このような唐突な幕引きは読者の読後感など全無視しているようで、実はああなのだろうか、こうなのだろうかと色々考えさせる。
わたしはどんな風にデイジーを受け取っていただろう?とそこから考えなおしてみた。
綺麗で自由で明るくて元気だ。
魅了されるところがあった。
いかにもジェイムズ作品に出て来そうな、お行儀が良くて知的で、ちょっともってまわった思わせぶりな慎重女子とは違っていた。
(言葉に棘があるようですが気のせいです)
この美人で明るい快活な少女。
何となく世間が、その階級(富裕層中心の上流社会)が決めているルール、見た目の問題や外聞の良しあしなどはわかっていて無視しているようだ。
なぜなら、天地神明に誓ってデイジーには何も後ろ暗いことがない。
何もないのに、どうしてそんな意味の分からない社交界の掟、空気を読むことによって楽しみ(例えば夜の星降る街を見に出かけたり)を制限しなければならないのだろうか?という疑問を感じる。これはおかしくない。
デイジーは、100%無邪気で天然な無軌道女子じゃないのだ。
彼女はウインターボーンと、彼がそっち側に付いた上流階級の流儀を「四角四面のお堅い考えね」と何度も言う。
明るさと無邪気さに隠れてほとんど見えないが、反抗心がそこにはある。
さらに、自由に行動して何が悪い、かまうものかと彼女に思わせてしまうだけの(父の)財力がある。
本人の気持ちや考えが純粋である・ない、よこしまな意図がある・ないに関わらず、行動を規制し、伝統と慣習の名のもとにレッテルを貼りすべてをシャットダウンしてしまう。
そういう力に反抗していたように見える。
保守的な空気が自由を阻害する。
家父長制度が押し付ける古い保守的な規範が女性の行動を阻害しているように見えがちだが、実は阻害しているのは母親たちであり、裏世界で政治力と発言力を持つ年配の女性陣のグループであったりする。
男性たちはそこに従っているだけなのだ。
厳格にルールを適応する時、そこにはある一部の母親世代の厳しい目が光っており、厳格に伝統を守る男性陣が後援されているという構図がある。
現代も変わりはない。
常に目を光らせてアンテナを張り、ランク付けをして階級を作る。
収入や家庭環境に応じてある一定の線引きをして、そこを超えるか超えないかを常に見張る。
そして井戸端会議によって(ここでは社交界の場という名であちこちに作られるパーティによって)陰口をきき、仲間外れにする。
そういう力をわたしも大なり小なり感じたことがある。
彼女は世界の美しさと自分の若さをいっぱいに体と心のすべてで受け取めていた。
何のふしだらな意図も悪意もないのだから、こちらが向こうに合わせる必要性を感じない。
「そう見られるから」と言われるルールを逸しているからといって、そのことと淫乱であるのとは別の話、両立しない。
男性と二人きりで散歩をしているだけで後ろ指を差される?
それでは、どこにも行けないじゃないの。
夜のローマがどれほど美しいかも見られない。
そんな彼女に対して、ウィンターボーンは強く惹きつけられながらも「年配のご婦人たちの視線」の中で世間体をはばかり、常に節度を持って接している。
ある一定の距離を保ち以上深く関わろうとしない。
彼の擁護をするならば、彼は彼なりに懸命にデイジーに近づき出来る限りコミュニケーションを作ろうと努力してはいた。
恋愛する気もないイタリア男と遊び歩いていてその機会を逃したのはデイジー自身だ。
しかし、ウィンターボーンは本当に、デイジーに本当の意味で近づこうとしていただろうか?
「本能的に抗いがたい力で引き寄せられる」とは違う意味で、だ。
デイジーはそんな彼を見透かしている。
あくまで節度を保ってコステロおばやウォーカー夫人の意見を尊重する、そんな彼では付き合っても意味がない。
デイジーが欲しかったものは何か。
彼女はもっと違う「何か」を待っていた。
そのしがらみや冷たい視線やルールのすべてを突き破る強い力をウィンターボーンは持たなかった。
踏み込もうとはしていたかもしれないが、足りなかった。
彼の保護者であるおばの家に招くことも出来ない。ならば結婚を申し出ることもしないだろう。
デイジーはよく知りもせずにくだらないルールを逸脱しただけで淫乱ビッチと決め付けている人々に対して反抗すると同時に、彼の行動にも自分と同じルールを逸脱した自由を求めていた。
本当はデイジーが一緒に行きたかったのはウィンターボーンで、イタリア人ではなかったのだと思う。
誰が彼女を殺したか?
デイジーを殺したのは形としては熱病だが、間接的に、社交界の総スカンであり、彼女の自由を阻害する側に立ったまま手を出しあぐねていた彼でもあった…と私にはそう読めた。
決して男性を責めるつもりはないし、仕方ないし当たり前だと思う。
デイジーはその最期の言葉によって、彼に対し死を隔ててなお手をさしのべて来ているように見えた。
おわり
最初この読了記事の題名は「誰が彼女を殺したか?」だったのだが…壮大なネタバレになってしまうことに気が付いて変更した。
さらに追記。
批判めいたことを書いたが、例えばウォーカー夫人なんて善良そのものの夫人で、心から秩序を保つことが自分たちのためになると信じてやっている。
デイジーが制御できないこと、面子をつぶしたこと、破廉恥な態度(夫人曰く)を自分のサロンでやったこと、などなどが彼女の善良な心を傷付けた。
だがその善意も「社会秩序を保つため」の御旗のもとに、個は押し潰されていく。理解を越えた価値観(と財力)を前にすれば機能不全に陥り、うまく働かない。結局、拒絶反応に走る。
誰も悪い人ではないのに、どんどん悪い方向に向かってしまう。
往々にしてこのようなことが起きる。彼女たちは決して若者の未来をつぶす悪魔の集団などではないのだが。
ということを追記しておきたかった。
おまけ
英語版原書グーテンベルクリンク