今年の3月は、なんとも難しい気候だった。
春の長雨で寒い日が続くと思ったら暑い日が来て、また雨続きになって冬のコートを着込み始めたらまた夏日になり、そして雨と風の強い日になる。
桜の開花も、暖冬で早まるかと思えば長雨のせいで寒くなって遅れ、おかげで家庭菜園のジャガイモを植えるタイミングが迷走している…
(植え付けの時期の目安で、よく桜の開花と言われるのを忠実に守っているのだ。もうひとつの目安の菜の花はもう咲き始めているけれど…)
こういう気候だからか、シューベルトの『冬の旅』が無性に聞きたくなって、CDを引っ張り出して聞き始めている。フィッシャー=ディースカウの名盤という猫に小判が、幸いコレクションの中にあるのだ。
ちょっと前からトーマス・マンの『魔の山』を原語で読み直している影響もあるかもしれない。大学に入る前の高三の春休み? に無理して読んでから縁のない作品だったけれど、巡り合わせで偶然船会社に勤めることになったし、コロナが遠因で家にいることが多くなって(彼女と疎遠になったことは関係ないと思いたい)、「水平ぐらし」が長い冬を迎えたから、読み直したくなったのだ。
『魔の山』では終盤で『菩提樹』が取り上げられていて、これはもちろん素晴らしいリートだ。若い頃終電を失くして歩く夜には、酔っ払いながら口ずさむこともあった。テンションが上がる飲みというより、悩みがより重くなる、ダウナー系の酔い方をする夜が、昔も今も僕は多いのだ。
これはもちろん押しも押されもせぬ名曲なのだけれど、もうひとつ、『春の夢』というリートも僕は好きだ。やはり歌曲集『冬の旅』の中の一曲で、非常にドラマチックな名曲だ。
春を思わせる軽やかで踊るようなピアノのイントロに誘われて始まる第一連は、懐かしい春の情景を描く。色とりどりの花、青々とした草原、小鳥のさえずる声。歌も楽しげに弾んでいる。
しかしそれに続く第二連は、残酷な「目覚め」。
実は季節は冬真っ只中、第一連の春の情景はすべて、「私」の見る「春の夢」だったのだ。
(歌詞ですでに「私は夢見た」とすでに明かしているけれど、それを忘れさせるほど、第一連のメロディーは甘く楽しげなのだ)
無慈悲に激しく速く刻むピアノ伴奏に切り刻まれる歌声は、目覚めた「私」を「冬の夜(明け方)」に連れ戻す。肌を震わす寒さ、厳しい暗闇、そしてカラスの不吉な叫び。
その後の第三連では、「まだ夢を見ていたい私」が歌われる。それは甘い調べでありながら、第一連のような底抜けの明るさではなく、痛みと苦味を伴うような、メランコリックなすすり泣きだ。
帰らない春、そして帰らない恋人を思いながら。
それらを夢見、憧れる自分に耽溺するような…
年を重ねて孤独を噛みしめるようになると心に染みてくる、甘い毒薬のようなリートだ。