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【セカイの思想から】谷徹・飯田隆・清家竜介・宮﨑裕助・國分功一郎(斎藤哲也編)『哲学史入門Ⅲ』NHK出版、2024年。
本書は、編者がインタビュアーとなり、5名の研究者と対話しながら20世紀の西洋現代哲学・現代思想を解説していきます。全3巻本の最終巻。いよいよフィナーレです。
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本書は第1章「現象学−その核心と射程」、第2章「分析哲学のゆくえ−言語はいかに哲学の対象となったか」、第3章「近代批判と社会哲学−マルクスからフランクフルト学派へ」、第4章「フランス現代思想−20世紀の巨大な知的変動」、終章「〈修行の場〉としての哲学史」で構成されています。
1.「サイエンス」は最近登場した
恥ずかしながら知らなかったのですが、科学を意味する「サイエンス」という言葉の初出は19世紀になってからだとのことです。そこでようやく個別分野の自然科学(あるいはサイエンティスト)と、より大きな全体としての知を扱う哲学(者)が明確に分かれたようです。
2.「私」とは? 「私」が見る世界とは?
現象学とフランス現代思想の箇所を読んだ後、「私」とは何だろうかということについてふと浮かんだことがあります。現象学で触れられていたメルロ=ポンティの議論は、「他者に見られる経験によって〈私〉が成立する」という構図になっています。たとえば、覗きをしているところを他人に見られることで、覗き魔としての「私」が与えられる(対他存在)。
続いて、フランス現代思想のくだりで、「世界にはあらかじめ決まった事物があるのではなく、言語による切り分け方(分節)の違いによって、異なる世界が現れる」というソシュールの思考が紹介されていました。また、ドゥルーズとデリダのくだりでは、「ありのままの私」は存在せず、関係や変化の中で「私」が成立している」と述べられています。千葉雅也さんの「仮固定」のような議論でしょうか。
これらを読んでみて、比較的重度のマイナス思考である僕は、どのようにして存在しているのかを考えてしまいました。「どうせ他人から大した人間だと思われていないに違いない」という対他存在に基づくネガティヴな「私」を出発点とし、そのような「私」はどうしてもネガティヴな言葉遣いで世界を分節化することになってしまい、結果非常にネガティヴな世界・他者が「私」の目の前に現れます。それがさらにネガティヴな対他存在としての「私」を再帰的に補強し、次の循環に入ってしまう。そのように思いました。実感としては、ネガティヴな対他存在の付与(他者から馬鹿にされた、他者からの評価が低かったなどの経験)がネガティヴな分節化の要因となったのではと考えています。
この悪循環を断ち切る術として、関係・変化によって「私」が成立するというドゥルーズとデリダの議論はたいへん救いになるものに思えました(「事物の本質や起源を措定する〈同一性〉の哲学・思想への強烈な批判」)。ネガティヴな「私」や、そんな「私」が切り出すネガティヴな世界もまた本質的・不変的ではなく、ポジティヴな方向に変化する可能性を秘めている。ネガティヴな「私」は「仮固定」であり、「私」の別のあり方に開かれている。もちろん、いったんポジティヴな「私」に変化しても再度ネガティヴな「私」に戻ってきてしまうこともあり得るわけですが、「私」も、「私」が見る世界も変化しうるということこそが救いなのではないでしょうか。
分析哲学の「破壊力」にも驚かされましたし、西欧マルクス主義のような僕にはなじみの薄い思想についてもざっくり把握することができました。本シリーズを足がかりにして、別の視座から書かれた哲学史を読んでいきたいと思います。次は熊野純彦『西洋哲学史』岩波書店、2006年を考えています。