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【セカイの思想から】千葉雅也・納富信留・山内志朗・伊藤博明(斎藤哲也編)『哲学史入門Ⅰ』NHK出版、2024年。

 本書は、古代ギリシアからルネサンスまでの哲学史について、編者がインタビュアーとなって4名の研究者と対話しながら解きほぐしてゆく入門書シリーズの第1弾です。

 まず序章「哲学史をいかに学ぶか」では、千葉が哲学史を学ぶ上での基本的な姿勢について語ります。以降、第1章「〈哲学の起源〉を問う−古代ギリシャ・ローマの哲学」では納富、第2章「哲学と神学はいかに結びついたか−中世哲学の世界」では山内、第3章「ルネサンス哲学の核心−新しい人間観へ」では伊藤が、それぞれの専門的知見から平易に解説を加えていきます。


1.  哲学者にどう向き合うか?

 一人の哲学者について学ぶ際、その哲学者だけを掘り下げても理解は進まない。他の哲学者との影響関係を把握しなければならない。そう千葉は指摘します。過去の哲学者の思想と向き合う際その思考様式に違和感を感じるわけですが、千葉はそこで現代を生きる我々の感覚を適用してしまうのではなく、一旦判断を停止し異質な思考様式に身を揺さぶられる体験が必要であるといいます。このような「人類学的態度」は、読者自身のあり方を揺さぶり変化への扉を開くものであり、千葉の『勉強の哲学』にも通じる視点です。

2. アリストテレスの幸福論は今日も使える

 さて、以下では2つのトピックについて取り上げたいと思います。

 1つ目は、第1章のうち「現実態は幸福論と結びついている」です。納富は、アリストテレスの現実態が2つの意味を持つと指摘します。一方は広義の現実態、他方は狭義の現実態です。

 前者は、「目指すべき目的が運動の外にある」場合を指します。例えば、建築中とは、目的である家がまだ存在せず、家という目的が実現するのは建築中という運動変化が終わった後であるという運動変化に着目した意味です。他方後者は、目的を含んだ行為を意味します。すなわち、「見る」や「生きる」のように、現在進行形と現在完了形が同時にその都度成立しているような行為を指します。そしてアリストテレスにとっては、後者の現実態の方が中心的であると納富は指摘します。別の目的のためにではなく、「いま、ここで」生を実現する。それが幸福であると。
 確かに、生活を送る上では、過去を反芻して後悔したり、まだ来ぬ未来への不安を憂うことで精神的な安寧が損なわれることも多いですね。「いま、ここ」に幸福を見いだすアリストテレスの現実態は、「いま、ここ」に集中し精神的な安定回復を試みるマインドフルネスの思想に通じるものがあります。アリストテレスの思想は、現代人が今この瞬間を生きるために直接参照する価値があるといえるのではないでしょうか。

3.   心の安寧と変革をつなぐ

 2つ目は、同じく第1章から。筆者にフィットする哲学者は誰であろうかと考えていた際に目に留まったのが、「ストア派とエピクロス派」及び「ヘレニズム哲学の現代性」です。
 自分がどれだけ動こうとも世界は容易には変わらないのだから、世界で起こることを受け入れ、内面的な平安を求める。これは、自己の無力感に苛まれる時代状況にあっていかに生きればよいかを考える上で妥協の産物であるかもしれませんが、1つの現実的な解ではあります。納富は、このようなアイデンティティ・クライシスに陥りがちな現代人にストア派の哲学が人気であると理解を示します。他方、「ストア派もエピクロス派も現状変革という発想が出て来ない」とその負の側面も指摘し、SNSなどで仲間内のコミュニティに閉じこもるような今日的問題とのつながりを見いだします。
 筆者は身体的・精神的苦痛をもたらす事物から距離を置きたいものだと常々考えているのですが、ストア派やエピクロス派の思想はまさにこれに近いものでした。ところがその負の側面を知るや、現状変革と精神的安寧を両立させる思想・哲学の必要性を感じざるを得ませんでした。納富は、社会変革を実現するには、プラトンのように「理想の国を作るために、自分は革命も辞さない」という気概を持ったり、アリストテレスのように他者を巻き込んで共同体の中で善を実現していくような政治的・公共的思想が必要であるといいます。
 いかにしてストア派・エピクロス派的な精神的安寧とプラトン・アリストテレス的な公共的思想を接合させるか。序章で千葉が指摘したように、他の哲学的思想との関係を意識して思考することが否応なしに求められます。

 次作以降では近現代の哲学史が語られます。今日私たちが直面している個別的あるいは社会的問題を考える上でのさらなるヒントに出会えるかわくわくしながら読み進めたいと思います。

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