1人の命よりも多数の命を優先します…という倫理は正しいのか?【トロッコ問題、不治の病の特効薬、命の優先度】
こんにちはアルゴです。
本業はもちろん、note、YouTube、電子書籍の執筆などをしております。
介護保険外サービスの事業報告は、今後、電子書籍での情報発信をメインに考えており、今、執筆中です。今年中に発行できるかどうか…というところです。
今後はnoteでも、介護以外の記事も増やしていきたいと思います。介護だけだとネタもなくなってしまうので。
今日は有名なトロッコ問題を用いて、命の重さは一体どこにあるんだろう?ということを考えてみます。
あらかじめこの記事についてお話すると、
・絶対的な正解は存在しない。私の主張、結論を述べる
・読んでいる方が不快な気持ちになる表現がある可能性がある⚠
ということをお伝えしておきます。ご注意ください。その上で納得してお読みになっていただければと思います。
有名なトロッコ問題を考える。一人の命よりも多数の命を救うことを優先する考え
哲学や倫理について考えるとき…『トロッコ問題』が例にあげられます。
有名なので皆さんも一度は聞いたりしてご存じかもしれませんが、改めてここで私からもカンタンにお話します。
あなたは鉱山で作業中のトロッコに乗って猛スピードで線路を進んでいました。
ところがあるとき、あなたはとんでもないことに気づきました。ブレーキが故障し、止めることができないのです。
不運なことに、トロッコが進む線路の先には、5人の作業員が作業をしていました。このまま進むと、暴走するトロッコは5人の作業員を跳ね飛ばし、確実に5人の命を確実に奪ってしまいます。
ブレーキは故障していましたが、なんと、ハンドルは無事でした。ハンドルを切れば、進路を切り替えて5人の作業員がいる線路を回避することができます。
しかし、あなたは再びとんでもないことに気づきます。
ハンドルを切り替えた先の進路にも、1人の作業員が作業をしていたのです。
もしハンドルを回して進路を切り替えれば、5人の作業員の命は助かります。
しかしそれと同時に、1人の作業員の命を奪うことになるのです。
この作業員、あわせて6人はあなたと面識もなく、何の罪もない人です。
① あなたはハンドルを切り、5人の命を救いますか?
② それともハンドルを切らず、そのまま5人のいる進路につっこみますか?
(この問題においては、『奇跡的に助かる可能性がある』とかいう事情を排除するものとします。どちらの選択においても、その先の進路にいる作業員は確実に死亡します)
この選択肢において、90%以上の方は、①のハンドルを切るを選ぶそうです。
①を選択をした方の主な理由としては、
●ハンドルを切らなければ5人の命を奪ってしまうが、ハンドルを切れば1人の犠牲ですむ
●より多くの命を救うことが正しいから
というものです。1人の犠牲で5人の命が救われるなら仕方ない…という考えです。
ここでは多く語りませんが、最大幸福とか功利主義とか、そういう思考です。
どちらの選択肢が正しい・・・ということは言い切れませんし、正解もありません。
必ず治る不治の病の特効薬
先にあげた『トロッコ問題』は有名で、聞いたことがあるし考えたことがあるという方も多いと思います。
次に、私が勝手に作った『不治の病の特効薬』問題について考えてみましょう。
とある国の小さな村に不知の病が爆発的に流行していました。
この不知の病を一度患ったものは今まで回復したという例が1人としておらず、発症してから数日で必ず死亡してしまいます。
現在、不知の病にかかっているのは村人100人です。
村人の一人であるあなたがこの問題にアタマを悩ませていたところ、村の唯一の預言者兼治療師が言いました。
「村で一番働き盛りのタナカを連れてこい。タナカは神から特別健康なカラダを与えられ、どんな病気にもかからないようじゃ。
タナカの血を、病にかかっている100人に輸血すると必ず100人の病を治すことができるぞよ!!」
(ちなみに、ここでは預言者兼治療師は今までの実績により、言うことは100%正しいと過程します。)
それを聞いたあなたはさっそくタナカを連れてこようと思いました。
しかし預言者は…加えて…
「ただ、その場合、全身の血を失ったタナカが代わりに命を落とすことになるのじゃがな…。なのでまず、タナカを睡眠薬で眠らせた後、本人に気づかれないように血を抜き取らなければならないぞよ」
あなたの判断は揺らぎました。100人を救うためにはタナカが命を落とさなければならないのです。
病にかかっている100人と、特別なカラダを持っているタナカは、あなたと面識はなく、いずれも何の罪もない人です。
①タナカを連れてきて、全身の血を抜き取り、100人を救いますか?
②100人の命は泣く泣くあきらめて、タナカ一人の命を救いますか?
(この問題においても、『別の解決策がある』とか…例外は考えないものとします。100人を救うか、タナカ1人が犠牲になるか…どちらかの選択肢しかとることはできません)
トロッコ問題と同じように、正解のない問題です。どちらが正しいということもありません。
みなさまがどちらを選ぶかもわかりません。
なので、ここからは想像ですが、それぞれの選択肢について考えてみましょう。
<① タナカの血で100人を救う について>
①を選択したケースでは、トロッコ問題で90%の人がとった、『ハンドルをきって5人の作業員を救う』という選択肢と同様です。
1人よりも100人という多い数が救われるなら、そちらが良いという決断ですね。
<② タナカを生かし、100人の命はあきらめる について>
②を選択したケースの人の理由もけっこう容易に想像がつきます。
いくら100人を救うためとはいえ、罪のないの健康体人間を1人犠牲にするなんてできない…という考え方です。
自分で作った問題ではありますが、私自身はこの②の選択肢をとります。
他にも賛同してくれる人はいるのではないでしょうか?
トロッコ問題と難病特効薬の選択の矛盾
繰り返しになりますが、トロッコ問題にしても不治の病問題にしても、正解はありませんので、どちらの選択肢の意見があってもおかしくはないのです。
しかし、ここで一つだけおかしな点というか、疑問が生じます。❗
それは…
トロッコ問題では『ハンドルを切って5人の命を救う』ことを選択したのに、不治の病問題では『タナカ1人の命を救う』ことを優先した人です。
トロッコ問題も不治の病問題も、
『1人を犠牲にすればより多くの人を救うことができる』
『どちらか一方の選択肢しかとれない』
『全員に何の罪もない』
という条件は根本的に同じです。
むしろ、トロッコ問題の5人より不治の病問題の100人のほうが、数字的には圧倒的に多くの人間を救えます。
それにも関わらず、多くの人がタナカにする人という選択肢をとらないのはなぜでしょうか??
トロッコ問題でハンドルを切り一人を犠牲にすることを選択したのなら、100人を救うためにタナカを犠牲にしないのはなぜでしょうか?
そう問われたとき、納得のいく説明ができるでしょうか?
少なくとも私はできません。
「100人を救うためとはいえ、無実のタナカ殺すのはイヤだから」???
それは、トロッコ問題でハンドルを切って選択的に1人を犠牲にしている時も同じです。
命の優先度って何でしょう?誰がそれを語れるでしょうか?
トロッコ問題も不治の病問題もフィクションではありますが、この残酷な世界では同じようなことが起こっています。
命の優先度というものを誰かが勝手につけて、優先した命を生かすために失われる命がある。
戦争、食糧問題、動物実験、ウイグル問題・・・など様々です。
そのような世の中で私たちは、トロッコや不知の病問題のような選択と決断を自然と行っていると思うのです。
生きていくということは、意識的にも無意識的にも選択をしなければならないので、そこで何らかの犠牲というものが生まれています。
私たちの今ある生命は、誰かの犠牲のもとに成り立っているのです。
『命』について語るなんて、私はエラそうなことはしたくないのですが、実際に命というものを語ることができる人が、世の中にどれだけいるのでしょうか?…ということを言いたいです。
なぜ、動物の命よりも人間の命が優先される世の中なのでしょうか?
なぜ、日本で肉を食べることは罪にならないのに、同じ国で動物虐待は問題とされているのでしょうか?
そもそもこの問いに答えられる人もいないと思います。
なぜなら、やはり『正解』が誰にもわからないからです。
私自身は肉を食べませんし、メインブログやYouTubeでもベジ生活について触れていますが、それが絶対的に正しいとも思いません。
(魚や卵、乳製品は普通に食べますので、ヴィーガンではありません)
ベジタリアンの人が陥りがちなのは
『自分たちは絶対的に正しい事をしている。世の中が絶対に間違っている』
と思い込みやすいことです。
よしんば動物愛護の観点でベジタリアンになった人も、毛皮のコートを着ていたり、革のベルトや財布を使っているなら意味がありません。
たとえそのようなファッションもしていないという人も、一歩街に出てみれば、電車のつり革や病院の待合室ソファーなど、象牙の印鑑、動物の犠牲になりたっているものに間接的に触れています。
多くの人を救うと考えられている新型コ●ナのワクチンだって、動物の犠牲が不可欠です。
大切なのは、
『自分以外の人間や動物の犠牲があって今の自分がいる。そのことに感謝する』
ことだと私は思います。
そしてこれも、あくまで私の持論であって、皆に強制するわけではありません。
サポートですか・・・。人にお願いするまえに、自分が常に努力しなくては。