10~17節「アルフレッド王の生涯」(Asser's Life of King Alfred) 私家訳(855年)
<はじめに>
これは、アッサーによる 9世紀後半のイングランドの王、アルフレッド王 ("アルフレッド大王") の伝記 (Vita Ælfredi regis Angul Saxonum / De rebus gestis Ælfredi regis) の英語版、「Asser's Life of King Alfred 」(以下 LoKA)から自分用に翻訳した、仮訳です。
完全性、正確性などは保証しかねますが、もし誤訳、ご指摘、ご質問等ありましたら、忌憚なくご教唆頂ければ幸いです。
※随時修正・追加する可能性があります。
<訳文についての注意>
※文中の太字表記は、訳者 (alfred_pilgrim) によるものです。
※節番号に付随する見出しは、訳者による概要です。
※各節に、元のラテン語文を引用しておきますが、日本語訳は、英訳版にもとづいています 。
※「LoKA」という略語は訳者 (alfred_scribe) が勝手に使っています。一般的な略称ではありません。
◆本文ここから◆
「アルフレッド王の生涯」
Life of King Alfred / Vita Ælfredi
10~17節 (855年)
10. (異教徒のシェピー島越冬キャンプ)
主の顕現より855の年(アルフレッドの御年 7歳)、異教徒の大軍が初めて、シェピー島 (*3-2参照) にて越冬した。
11. (エセルウルフ&アルフレッドのローマ巡礼)
同年、高名なる王エセルウルフが、彼とその祖先の救済の為に、王国の全土の1/10を 王室への奉仕および納税から解放 (*11-1)し、また、これを永遠とするべく、キリストの十字架にかけて三位一体の神に捧げた。
また同年、王は、ローマへの盛大な巡礼 (*11-2) も行なった。この時、アルフレッドも同行させた(アルフレッドにとってはこの旅程は 2回目 (*11-3))が、王が他の息子達よりアルフレッドを慈しんでいたからである。
王はローマに丸一年滞在した後、フランク国王 シャルル(禿頭王)(*11-4)の娘、ジュディス(*11-5)を伴って帰国した。
12. (エセルバルドの乱)
しかし、エセルウルフ王の外遊中、短期間(*12-1)であったにも関わらず、セルウッドの森 (*12-2)の西側で、キリスト教徒の行いに1反するような不名誉な出来事が起こった。
エセルバルド王 (*12-3) と、シャーボーン司教のエアルスタン(*12-4)、ならびにサマセット州公のイアンウルフ(*12-5)が、エセルウルフ王がローマから帰国しても、2度と王国には迎え入れないようにすべく、謀略を巡らせていたのである。
多くの人々にとってこれは、司教と州公がそそのかしたと言われている部分だけでも、前代未聞の無残な事件であった。
またこれは、ひとえにエセルバルド王の傲慢さによるものだ、と言う者も多かった。と言うのも、私自身(*12-6)がある人々から聞いたところによると、またこの後の出来事からもわかるように、彼は本件および他の多くの悪行についても、自ら積極的に関わっているからだった。
実際、エセルウルフ王がローマから帰国しようという時、その息子エセルバルドおよびその相談役達――と言うよりむしろ、共謀者達―― が揃って、恐ろしい罪を犯そうとしていた。すなわち、国王を彼の王国から追放しようというのである。
しかし神はそれが実行されるのをお許しにならず、また貴族たちも、サクソン全土(*12-7)においてこの件に関わっている者であれば誰も、許すようなことではなかった。
父と子が対立し、またはすべての民が両者いずれに対しても反抗し、内乱状態となれば、サクソンの国土に対する取返しのつかない危機である。
日ごとにこの状況が悪化することを避けるため、それまで一体となっていた王国は、父親の例えようのないほどの自制心と、貴族達の同意を以て、父と子の間で分割され、東側の地域は父に、西側の地域は息子に委ねられた。
これにより、本来であれば父親が統治すべき地域を、不実で強欲な息子が支配することになった。というのも、サクソンの国土は、常に西側の方が東側より重要な地域(*12-8)であったからである。
13. (エセルウルフ王の対応、女王の禍根)
従って、エセルウルフ王がローマから帰国した時、全国民が(当然ながら)歓喜した。彼等の主君が帰還したからには、彼 (訳注:王) が許せば、強欲な息子エセルバルドを、その取り巻き達と共に、彼 (訳注:息子)の王国の中に占める領分から追い出すことに異存はなかったからである。
しかしエセルウルフ王は、王国が危機に陥るのを恐れ、(前述のように)深い慈悲の現れと賢人会議との相談により、そのような事 (訳注:息子の放逐) が起きるのを回避した。
また、シャルル[禿頭]王から委ねられた王女ジュディスについても、彼 (エセルウルフ王) の寿命が尽きるまで玉座に彼と並んで座することを命じ、彼の臣下の貴族の間からも異議や不満も上がらなかったが、しかしこれは、この国の (間違った)慣習に反する(*13-1) ものだった。
というのも、ウェスト・サクソンにおいては、女王が王と並んで座ることは許されないことで、また呼称も「女王 (reginam )」は許されず、「王妃 (regis coniugem)」だったからである。
この国の年配者たちによると、この意見の分かれるような、正に悪名高い慣習は、(同じ国民の) ある強欲で不道徳な女王の行いが元になっている、と言う。
彼女は、己の主君と国民に背くような、可能な限りすべての事を行った挙句、彼等から憎悪を買い、女王の座から放逐されることになっただけでなく、彼女以降のすべての女王に、同じ禍根を残すことになった。
彼女の大いなる悪行の結果、この国の民は、王の存命中に女王を玉座に並んで座らせるような王には、彼等を統治させない、と誓ったのである。
このゲルマン全体の習慣に反する、邪で忌むべき慣習 (*13-1)が、いかにしてサクソンの国土で行われるようになったか、多くの人々はその起源を知らない(であろう)から、私からもう少し詳しく説明すべきであろう。
この説明というのは、我が君であり誠実なアングロサクソンの王、アルフレッドから伺ったもので、今でも度々私に語ってきかせる話なのである。
彼もまた、多くの信頼のおける情報源―― 実際、この出来事を詳細に覚えている広範囲の人々―― からこの話を聞いたのだった。
14. (毒女! イードバーガ)
マーシアに、ごく近年、オッファ(*14-1) という強大な王がいた。
彼は近隣の王達および諸地域から恐れられる存在であり、また、ウェールズ(*14-2) とマーシアの国境に、海から海までを結ぶ長大な防塁 (*14-3) を築いた。
ウェスト・サクソンの王、ベオトリック (*14-4) は、オッファの娘イードバーガ (*14-5)を妻として受けた。
彼女は、王から親愛と国内ほぼ全土に対する権力を得ると、たちまち、その父に倣って暴君のように振る舞い始めた―― ベオトリック王が気に入っている者はことごとく憎悪し、神と民にとって忌むべきあらゆることを行い、また、王の前で可能なかぎりすべての者を糾弾して、その命または権力を奪うように謀り、もし王の意向でこれが叶わなかった場合には、毒を用いて彼等を殺すのだった。
このような行為は、王が特に目をかけていた或る若者に対しても行われたと知られている。
彼女は、この若者に対する誹謗を王が取り合わないと悟るや、若者を毒殺したのである。
ベオトリック王自身もその毒を知らずに服んでしまった、と言われている。
イードバーガはその毒を、王ではなく、この若者に服ませるつもりだったのだが、王が先に口に付けてしまい、その結果、二人ともが死んでしまったのだった。
15. (イードバーガのその後)
従って、ベオトリック王が死去すると、イードバーガはこれ以上サクソン民の中に留まることは出来なくなった。
そこで彼女は数多の財宝を携えて海外に渡り、フランクの高名な王、シャルルマーニュ (*15-1)の許に参じた。
王への数々の献上品を携えて玉座の前に立った彼女に、シャルルマーニュは言った。
「イードバーガよ、私と、この玉座に控えている我が息子と、どちらかを選ぶか」
彼女は愚かにも、考え無しに答えた、
「もし私が選ぶことができるのでしたら、ご子息を選びたいと思います。彼の方がお若いですから」
シャルルマーニュは微笑んで応えた、
「もし私を選んでいたなら、お前は我が息子を得ていたかも知れない。しかし息子を選んだゆえ、彼も我も得られぬ」
しかしながらシャルルマーニュは彼女に、大きな尼僧院を与えた。
そこで彼女は世俗の衣を捨てて尼僧の姿となり、尼僧院長の職に就いたが、それも数年間だけだった。
自分の本国でも無軌道な暮らしぶりと言われていたが、外国では更に放埓なふるまいが見られたのである。
とうとう最後には、同郷の男と荒淫に耽っていたのが公けとなり、シャルルマーニュの命令で尼僧院を追い出され、死ぬまで、貧困と不幸の中で恥多く暮らした。
最晩年には(彼女を見かけた者達から聞いたところによると)奴隷の少年に付き添われて毎日物乞いをし、パヴィア (*15-2)で惨めな死を迎えた。
16. (エセルウルフ王の遺言作成)
エセルウルフ王はローマから帰国した後、2年間の余生をお過ごしになられた。
その間、現世の日々のあまたの事柄や善行に加えて、末期の迎え方も鑑み、遺言書 ――というより、進言書―― を作成させ、己の死後に息子達の間に不必要な争いが起きないようにした。
この文書の中で彼は、息子達(年長の2人)の間での王国の分け方、彼自身の遺産の息子達・娘・縁者達への分け方、および彼の死後にその魂 (*16-1)、息子達および貴族達に残すべき金銭の分け方について、適切に書き残すべく心を砕いた。
折角なので、この賢明な志について、末々の者達の見本とするべく、いくつかの点、特に、魂の求めに応じている (*16-2) と認められる重要なものについて、書き記そうと思う。
その他の、人々に対する遺産の詳細については、読者または聞き手にとっては冗長で面白味のないものであろうから、この短い文章の中に書き添えるには及ばないだろう。
さて、エセルウルフ王は、その(若さの花咲く頃から、あらゆる面から熱心に手をかけてきた)魂の善報のため、最後の審判の日まで、遺産となるすべての土地において―― ただし、その土地には住民と家畜がおり、荒地ではないことを条件として―― 10ハイド (*16-3) ごとに 1人の貧しき者(自国民か外国人かを問わず)に食べ物、飲み物、および着る物を恵むように、己の後継者達に命じた。
また彼は、毎年、その御霊のためのかなりの金額、すなわち 300マンカス (*16-4) を、ローマに送るように命じた。その内訳は以下の通り:
・聖ペテロを讃えて 100マンカス。特に、イースターのイヴおよびに夜明け (*16-5) にその使徒教会 (*16-6) の総ての灯明を満たす油 (*16-7)の購入費として。
・聖パウロを讃えて 100マンカスを、同様に、イースターのイヴおよびに夜明けにその使徒教会 (*16-8) の総ての灯明を満たす油の購入費として。
・普遍の使徒 (*16-9) である教皇に、100マンカス。
17. (エセルバルド、義母ジュディスと結婚)
エセルウルフ王が亡くなる (*17-1)と、その息子、エセルバルドは、神の禁忌とキリスト教者の尊厳に背いて、またすべての異教徒 (ペイガン) の慣習にも反して (*17-1)、父のしとねに上がり込み、フランク王 シャルルの娘 ジュディスと結婚したが、これを聞いた誰もが大いに眉をひそめた。
彼は父の後を継ぎ、2年半の間、ウェスト・サクソン王国を支配 (*17-2)した。
-----855年ここまで。18節~は別ページ。以下注釈-----
<訳注:10~17節>
*11-1:「王室への奉仕および納税から解放」(または教会への寄進?)とありますが、「アングロ-サクソン・クロニクル」(以下ASC) では、「神の栄誉に帰すべく登記した」というような言い回しで、これは単に「神の名の許に、土地の登記をした」(登記は敬虔な行為らしいので)、 という解釈もあります。
*11-2:ローマへの盛大な巡礼:歴代教皇の伝記集「Liber Pontificalis」(教皇の書、教皇列伝)の中の、この当時の教皇 ベネディクト 3世にについて書かれたくだりで、実際に「サクソンの王」が多くの財宝や絹織物などを献上品として携えてきた、という記述があるようで、実際に盛大なものだったようです。
ただ、この「Liber Pontificalis」も教皇の業績を讃えるために色々盛ってあるので、どの程度正しいかは不明。
*11-3:この旅程は 2回目: 1回目は 8節 (853年)。前回はアルフレッドのみでしたが、今回は父子で参詣。
なお、ASCにはアルフレッド同行の記述がありません。
また、ローマへの道中の中継地点、ロンバルディアのブレシアにある教会 (San Salvatore/ Sanata Giulia, Brescia) の芳名帳 (Liber Vitae) に、アルフレッドのすぐ上の兄、エセルレッドらしき名前もあるようで、彼も同行した可能性がありますが、ASCもアッサーも言及なし。
「王が他の息子達よりアルフレッドを慈しんでいたから」というのは多分アッサーのアルフレッド王へのおべっかに思えますが、それを強調するために削ったのか、単にエセルレッドは実際に留守番していたのか、不明です。
*11-4:シャルル 2世 (禿頭王) (Charles ΙΙ/ "Charles the Bald", 823~877年)は、シャルルマーニュの孫で、当時の西フランク国王。のちのカロリンガ王朝の王。(このへんの区別に詳しくないので、記述違っていたらすみません)
*11-5:ジュディス/ジュディット (Judith)は、上記のシャルル王と、最初の妻 エルメントルード (Ermentrude d'Orléans) との娘。843/844年生で、当時 11~13歳。
「伴って帰国」は、政略結婚の相手 (妻) として迎えた、の意。当時のカロリンガ朝の王女は通常は結婚せずに尼僧院に入り、特に外国人とは結婚しないので、異例の結婚。
エセルウルフ王はおそらく50~60歳代。
前妻のオズバーガ(アルフレッドを含むエセルウルフの子供たちの母)がどの時点でどうなったのか、ASCにも記載がありません。
*12-1:「短期間」とありますが、アッサーの主観では...。王がローマ巡礼するのは引退のサイン(イネ/ Ine 王など)で、1年も留守にすれば何かありそうなところ。
*12-2:セルウッドの森 (Selwood Forest) は、「ウェセックス」の中部、サマセット(西) とウィルトシャー(東) の境界あたり、バース (Bath) から南に延びる 旧ローマ街道の東に添って広がっていた。現在はほぼ農地・牧草地。
*12-3:「エセルバルド王」と「王」扱いになっているのは、エセルウルフ父王の不在中に王代行だったためか。
*12-4:シャーボーン司教 エアルスタン(Ealhstan):シャーボーン教会 (修道院) の司教。エセルウルフ王の若い頃 (ASC 823年の項) に戦場に随行したりしている。シャーボーン教会 (Sherborne Abbey) は イネ王が命じて 705年に建てられた修道院と大聖堂で、イギリス最古の学校のひとつ、シャーボーン・スクール (Sherborne School、現在は全寮制エリート男子校) を併設。
当時の教区はドーセット、サマセット、デヴォンで、正に「セルウッドの森の西側」。
▼現在のシャーボーン・アビー内部の様子。2018年撮影
*12-5:サマセット州公イアンウルフ(Eanwulf):ASCの845年の項でヴァイキングと戦った記述がある。
サマセット (Somerset) はセルウッドの森の西側の地域。
*12-6:「私自身」はアッサー自身のこと。念のため。
*12-7:「サクソン全土」とありますが、ウェセックスのこと。アッサーはアングロ・サクソンのイングランド(七王国)が統一された後に、ウェールズ(ブリトン人エリア)から招聘されてこの文章を書いているせいか、「ウェセックス (West Saxon)」をサクソン全体と捉えて書いている向きがありますが、この~855年前後 (エセルウルフ王の治世下) はウェセックスが隣国マーシアを含めた「サクソン」エリア全体に影響力を持っている....という意味で書いているのかも。
※七王国の内、ノーサンブリア、イーストアングリアはどちらかというと「アングル」系で、マーシア、ウェセックス、サセックス、エセックス(+ケント)が「サクソン」系。
*12-8:「常に西側の方が東側より重要な地域」:どのラインで「王国を分割」したのかはっきりしませんが、
a) セルウッドの森を境界とするプラン
b) エセックス・サセックス・ケント寄りを境界とするプラン
(長男アセルスタンの没後、三男エセルバートが副王として治めていた地域を、エセルウルフ王が引き受ける)
c) その他(その中間あたり?)
あたりが考えられ、アッサーの言葉を元にすると b)案ぽいですが、「セルウッドの西側」のナワバリを大幅に超えている感じで、議論があるようです。
*13-1:「この国の (間違った)慣習に反する」、「ゲルマン全体の習慣に反する、邪で忌むべき慣習」:
回りくどくてわかりづらいですが(すみません)、
ゲルマン(ヨーロッパ大陸側?)全体の習慣としては、「女王(王妃)が王と玉座に並んで座る」のは普通であり、それを禁じている「この国」=サクソン(ウェセックス)の慣習こそが「間違った」「邪で忌むべき」もの、と強い調子で批判しています。
が、今回エセルウルフ王が(ウェセックスの慣習に反して)ジュディスを女王として扱うことに貴族達から異議が上がらなかったのは、大国フランクから預かっているジュディスを保護する、外交上の判断でしょうか。
*14-1:オッファ(Offa) 治世のマーシアは当時の国内最大勢力で、ASCには イングランドを「統一」した王の一人として名前が挙がっています。
*14-2:「ウェールズ」:底本にしている英文は「ウェールズ/ Wales」となっていますが、ラテン語原文は「ブリタニア Britannia(m)」。いずれにしても、ブリトン人の地域。
*14-3:「長大な防塁」は、「オッファの防塁」(Offa's Dyke/ Clawdd Offa/ オッファズ・ダイク)と呼ばれる、ウェールズ("North Wales"/Wella)とマーシアの国境線(北の海岸から南の海岸まで)に、約 2.5メートルの土塁を築いたもの。
現在でも半分以上が地形上に残っており、トレッキングルート(Offa's Dyke Path/ Trail) が設定されていますが、それによると全長 285km, 踏破予想日数 14日間のようです。
(イギリス人、旧街道とかあると取りあえずトレイル・ルートにする。ドイツ人もやりがち)
▼雑な図ですが、位置関係はこんな感じ
*14-4:ベオトリック (Beorhtric) は、エグバート王(アルフレッドの祖父)の前のウェセックス王。在位 786~802年。
ケント王家の血筋のエグバートと王位を争っていたが、オッファの協力を得てエグバートを蹴落とし、王座に就く。
この際、エグバートの暗殺を企てて失敗したらしく、エグバートは海を越えて逃れ、フランク王国(シャルルマーニュ時代)に身を寄せていた。
ベオトリックがイードバーガの毒の誤飲で死んだ後は、エグバートが返り咲いて、王位に就いた。
*14-5:イードバーガ (Eadburh):このイードバーガの悪女っぷり、特に後半のフランク王国に逃亡してからの逸話は、このアッサーの記述からしか伺い知れず、「信頼できる人々→アルフレッド経由で聞いた」と言っていますが、どの程度の信憑性があるのかは不明。シャルルマーニュとのやり取りや、最後の「パヴィアで乞食をして死んだ」あたりなど、どうも教訓話めいています。
ASCにも、同様の記述(イードバーガの性格や毒殺のくだり)はありますが、そもそも ASCも同時代にウェセックス目線で書かれているので、政敵/隣国マーシアには厳しいかも知れません。
とは言え、フランク王国からある程度の情報は入ってくるでしょうし、エグくて面白いエピソードではあります。
*15-1:シャルルマーニュ (Charlemagne, カール大帝) はフランク王国をブイブイ言わせ、神聖ローマ帝国皇帝となってヨーロッパを牛耳ったドン。
エセルウルフ王が妻として連れ帰ったジュディスの曽祖父。
*15-2:パヴィア (Pavia) は ロンバルディア王国の都市。774年にシャルルマーニュが征服し、現在のイタリア北~中部を「イタリア王国」として神聖ローマ帝国に統合した。らしい。
ブリテン島からローマへ行く道中に立ち寄る都市のようなので、もしかしたら本当にイードバーガを見かけた人がいるのかも知れない。(眉唾)
*16-1:「その魂~」:死後の魂の救済のために使うべき予算、つまり永代供養費的なもの。エセルウルフ名義でのローマ総本山へのお布施、教会のお灯明代など。
*16-2:「魂が必要とするもののため (for the need of soul)」、上記 *16-1 の永代供養費の詳細。
*16-3: 「ハイド (hide)」は土地の単位。徴税の基準に用いた。
元々は「平民 1世帯の1年の食い扶持」に相当するようですが、算定方法は時代によりまちまち。後年の12~13世紀頃は、約 50ヘクタール (120エーカー) くらい。 9世紀当時はもう少し狭い面積だったようです。
*16-4:300マンカス (mancus):マンカスは貨幣単位で、おおよそ金貨 1枚か、銀貨 20ペンスに相当(地域や時代により異なる)。
1マンカス=熟練した職人や兵士の約 1か月分の給料のようなので、現代なら約 1億円くらいのイメージ?(物価・貨幣価値の変動無視)
*16-5:「夜明け」:原文の in galli cantu (gallicantu) は「ニワトリが鳴く」時で、ローマ時代の時間単位の一つ、午前 3時頃の一番鶏の時間。
夜明けでいいと思いますが、真夜中の意味もあるかも知れません。
「ニワトリが 2度鳴く前に 3度『(イエスを) 知らない』と言」った使徒ペテロを祀った教会にとって、重要な時間区分な気がしますが、聖パウロの方も灯明を点しているので、やっぱり単に夜中~夜明けかも。
*16-6:聖ペテロの使徒教会 は、使徒ペテロ (Peter) を祀った教会であり、カトリックの総本山、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂 (St. Peter's Basilica)。
当時は現在の建物に建て替える前の旧教会 (Old Basilica)。
846年にサラセン (アラブ勢) のローマ攻撃があり、そこそこ壊された。
*16-7:灯明(ランプ)を満たす油 は、オリーブオイルらしい。
サンピエトロ大聖堂には、教皇 グレゴリウス 2世 (在位 711~730年頃) が、「教会のペテロの墓の前の常夜灯(ランプ) の油のために、オリーブの木を寄附した」という石碑があるようです。
*16-7:聖パウロの使徒教会 (は、使徒パウロ (Paul) を祀った教会、おそらくサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 (Basilica of Saint Paul Outside the Walls) でいいと思います。
ここも 846年のサラセンの攻撃の被害に遭いました。
*16-8:普遍のローマ教皇 (原文は universal apostoric pope/ universali papae apostolico) と訳しましたが、補足までに:普遍 (universal) はカソリックのこと。「apostoric (使徒の)」は、ローマ教皇庁の枕詞。です。
*17-1:855年の項にありますが、エセルウルフ王の死去は (2年+後なので) 858年。遺骸は当初はサセックスの Steyingという町に埋葬されました。町内の教会にそれらしき石碑が残っているようです。
その後、アルフレッドがウィンチェスターに改葬し、当時の教会(所謂「オールド・ミンスター/ Old Minster」)に埋葬。更にミンスターの建て替えなど色々あり、現在はウィンチェスター大聖堂の遺骸箱に納められていることになっています。
▼ウィンチェスターにある遺骸箱 (16世紀) 3個の内のひとつ。エセルウルフの名前は箱には明記されていませんが、エグバート (エセルウルフの父) やその他の王様の遺物と共に、納められているはず。(この写真の箱には「HIC REX EGBERTUS~」(ここにエグバート王が~)と書いてあります)
*17-2:「異教徒 (ペイガン/pagan) の慣習にも反して」とありますが、7世紀頃のキリスト教化前 (「異教徒」時代) のアングロサクソン時代には、前例がない訳ではないようです。(Keynes & Lapidgeの訳注)
*17-3:ウェスト・サクソン王国を支配:ただしケント、サセックス、エセックス、サリーの地域は、弟のエセルバートが副王に復帰。ウェセックスは東西に分割されたままです。
----注釈ここまで。続き(18~30節)は次ページ>-----