見出し画像

聖地へ|熊野詣(1)


熊野詣

「熊野詣」が盛んになったのは、延喜7(907)年の宇多法皇の「熊野御幸」に始まるといわれています。
正暦3(992)年の花山上皇は、那智の滝の上流で千日修行を行い、その後西国三十三所霊場を旅しました。
現在の西国三十三所巡礼の始まりです。
花山上皇は、2024年大河ドラマ『光る君へ』で藤原伊周、隆家に矢を射掛けられたあの上皇様です。


熊野詣の盛衰

平安時代に浄土信仰が拡がると、那智は観世音菩薩の補陀落浄土、速玉大社のある新宮は薬師如来の東方浄瑠璃浄土、などとみなされ、神仏習合信仰の中心地になりました。
後白河法皇は歴代最多の34回も熊野御幸を行っています。
江戸時代になると、徳川紀州公が復興に力を入れたこともあり、一般庶民も熊野参詣の旅をすることが増え、そのあまりの数の多さに「蟻の熊野詣」といわれる最盛期を迎えます。
明治になり神仏分離されると一時巡礼者が激減し古道は荒れてしまったといいます。
近年、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」となった前後に街道は再び整備され、現在巡礼者は多くなっています。

那智大瀧の碑


熊野古道を(少し)歩いて那智の滝へ

大門坂駐車場まで車で行き、大門坂から登り、熊野那智大社と青岸渡寺に参り、那智の滝を巡り、バスで駐車場まで戻るルートです。合計約4時間の行程です。

振ヶ瀬橋は聖俗の結界
現在地と書いてある場所
結界を越える時突然、禊ぎの大雨


振ヶ瀬橋の禊ぎ

俗界と熊野の聖域を振り分けるという意味の橋があります。
「ここから聖域に入ります」と説明を受けた途端・・・

突然の土砂降りの雨でした!

そして橋を渡り聖域に入ると直ぐ雨は止みました。
穢れが多過ぎて大量の雨の禊ぎを受けたのでしょう。
雨が凄すぎて橋の写真が撮れませんでした。

大門坂

大門坂
登って来た方を振り向いたところ

整備されて歩き易い、ほぼ真っ直ぐの坂道です。
夫婦杉や大クスノキの巨木に癒されます。
ゆっくり歩んで進みます。
古道から現代の道路に出るまで1時間かからない程度。
初めての熊野古道の方にはおすすめルートだそうです。

熊野那智大社

礼殿
主祭神は熊野夫須美大神
(くまのふすみのおおかみ、イザナミノミコト)

神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)一行は、天照大神より使わされた八咫烏の先導で、那智の浜から上陸しました。やがて那智の滝を発見し、大己貴神(おおなむちのかみ)が顕れたる御神体として祀ったのち無事に大和の橿原の地へ到着しました。
そして紀元前660年2月11日に初代神武天皇として即位されました。先導役を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は烏石に姿を変えて休んでいるといわれています。
礼殿の奥に御本殿があります。
八咫烏は熊野の神の使いとして御縣彦社(みあがたひこしゃ)に祀られています。

樟霊社(しょうれいしゃ)

平重盛の御手植えと伝わる推定樹齢850年、幹回り約8.5mの大クスがあり、御神木とされています。
空洞化した幹の中を護摩木(300円)を納めて胎内くぐりをしました。 世界が平和になりますように。

胎内めぐり
大人でも通れます

那智山青岸渡寺

インド僧裸形上人が開基されて約1,600年。
西国三十三所の観音霊場の第一番札所です。神仏習合、修験道、自然崇拝、古くからの信仰が顕れている場所です。

本堂(如意輪堂)
天正18(1590)年 豊臣秀長による再建

三重塔

那智の瀧を背景にする姿が知られています。
平安末期に建立され後白河法皇も訪れた歴史のある塔でしたが、天正時代の戦乱で焼失しました。
現在の塔は昭和47(1972)年に再建されたものです。
エレベーターで3階まで登れます。

三重塔は青岸渡寺の施設です


熊野那智大社と那智山青岸渡寺

隣接して建つ2つはもともと熊野信仰の中心地として、明治の神仏分離まではひとつのものとして多くの人々の信仰を集めていました。

このあと、いよいよ那智の滝へ向かいます
つづく。



いいなと思ったら応援しよう!