余情 37〈小説〉
後輩と会わないまま、私は二回生に上がった。それは大した感慨も湧かなない春の訪れだった。
バイトは続けていた。お金が特別入り用になることはなかったけれど、両親に残していけるものが増えることは悪いことではないと思った。
春は入れ替わりの時期だ。バイトでは数人が辞め、そして新しく何人かが入ってきた。私のよく入る時間帯にも、新しい人が入ってきた。高校生の可愛らしい女の子だった。彼女は漫画がとても好きだといい、漫画の棚を積極的に手伝っていた。覚えも早く、いい子が入ってよかったと、職場ではやわらかな歓迎の雰囲気が流れていた。移り変わることを前提にやり方が決まっている。そういう場所に居るのだと、バイトをしていても、大学で勉強をしていても感じた。
朝食を終え、講義の時間までは図書館で過ごそうと、私は家を出た。
高校の頃から履き続けているスニーカーは色が褪せて、跳ねた泥のあとが染みになって残っていた。
歩き慣れた道のあちこちに、春は蕾を膨らませていた。頬を撫でていく風にも、あたたかみが感じられる。何度も行きすぎてきた季節なのに、春という季節の曖昧さが、私の心をざわつかせていた。この季節が嫌いなのかと問われると、そういうことではないと思う。ただ苦手なのだ。春は、いつの間にか体を包み込み、心地いいと感じて油断をしていると、あっという間に夏の盛りへと放り出される。そうして季節が流れ着くのは、あなたの命日なのだ。手触りのはっきりしない季節だというのに、背中を押す力ははっきりしている。それが余計に私の中で好きになれない理由なのだろう。
大学に着いてしまえば、心のざわつきは少し緩やかになっていた。周りを人が流れていく。どちらの方向にも行き交う様が、時間を攪乱しているようだった。朝の時間の、意識を半分近く部屋の枕に置いてきたような顔たちが行き交う。下手をすると講義を行う先生たちでさえ、そんな顔をしている時があるから、大学という場所は面白いのかもしれない。やりたいことがある人間も、ない人間も、やるべきことを何とかたぐり寄せてここに席をとっている。
図書館の扉を開くと、カウンターの向こうでパソコンに向かっていた職員が顔を上げた。小さく口元だけで笑いながら、軽く頭が下げられた。それに倣って私も浅く頭を下げた。私は書架の間を進みながら、どの本を手に取ろうかと考えていた。新刊や、返本されたばかりの本を集めている場所を覗くのもいい。そう思いながら、大きな窓の前の、図書館の中心にあたる棚の前へと立った。タイトルを眺めようと、その場にしゃがみこむ。文字の並びを、ひとつひとつ眺めていく。降り注ぐ光と、揺れる木々の緑が床の上を柔らかく掃いていた。
「これが、おすすめですよ」
す、と後ろから伸ばされた指は、私が通り過ぎようとしていたタイトルだった。黒く太い文字で書かれたタイトルを読んで、下の作家名を見た。
「読んだことがあります」
「知っています」
私は立ち上がり、後ろに屈み込んでいた彼女の方へ向き直った。
「なんでここにいるの」
「新入生です」
彼女は明るい色のワンピースに、黒のジャケットを羽織っていた。春らしい足下。白いショートブーツは、新しい色だった。
「これで、また先輩と後輩ですよね」
彼女は悪戯を成功させたという顔で笑っていた。私はあまりのしぶとさに、ため息を吐きながら、思わず顔を両手で覆っていた。指の間から入り込む光に、私は眩しさ以上に悲しみを感じていた。彼女の新しい靴の白さが、私には恐ろしかった。進むことを示唆し、その方向へ導くものを遠ざけて、私は安心してのたうち回っていたというのに。誰も私の邪魔をしないでほしかった。
「しつこいって、言われたことない?」
「今言われそうだなって思っています」
大きく、息を吐ききる勢いで、もう一度溜息をついた。本当は座り込んで、抱えた足に顔を埋めて、もっと暗い場所でこの目の前の状況を無視してしまいたかった。
カウンターに目をやると、職員の女性が不思議そうに私たちを見ていた。ここは高校の図書室のようにはいかない。私は彼女の手を掴み、今来たばかりの図書館の扉を押し開けて心地の好い空間を出ていくことにした。
ロビーの自動販売機の前まできて、私は彼女の手を放した。何も言わずに付いてきてくれた彼女に、コインを入れた後、何か飲むかと目で示した。それに気付いて、彼女はにっこりと笑ってミルクティーを選んだ。先ほど私に本のタイトルを指し示した彼女の指が、デジタルの光の浮かぶボタンを強く押した。がこん、と大きな音を立てて落ちたミルクティーを、彼女が取り出す。それを見てから自分の分の紅茶のボタンを押した。
お互いに飲み物を持って、私たちは建物の外へとでた。図書館の建物をぐるりと回り込み、中庭へと歩いた。人気のあまりない、少し薄暗いこの庭が、私は気に入っていた。それほど大きくはないが、真ん中に池まである。囲むように木々が育ち、人が来ないわりに手入れはきちんとされている場所だった。レンガが敷かれた小道を行くと、庭の規模にみあった小さな四阿があった。そこに置かれた椅子に腰を下ろすと、彼女も向かいへと腰を下ろした。
鳥の声が、敷地のあちこちで高く響いた。かすかな風に、彼女の髪が吹かれて揺れる。
「髪、切ったのね」
「失恋しちゃったので」
私はプルタブに指をかけながら、彼女の髪の毛の先を見つめた。ほのかに明るい色が入っていて、それが彼女によく似合っていた。唇の淡い色が映える季節になったのだと、会わなかった時間を実感した。それは実際の時間よりも、とても長い時間だったように思えた。
「どうして、ここに入ったの」
ミルクティーを喉に流し込んでから、彼女は表情を改めた。さっきまでの仄かに笑みの浮かんでいた表情は、きつく結ばれた唇にかき消された。葉擦れの音が降って、私たちの耳は小さな脈の動きに震える。彼女の肌の色は、古い四阿の影のなかでも華やかで、私はその手首に金色の華奢な鎖を見つけた。
「私もいろいろ考えました。将来とか?進学はやっぱりお金もかかりますし。お母さんとも話しました。その結果が今です」
「私にはもう近付かないで、と言わなかった?」
「違います。先輩は、会いに来ないで、といったんです」
「結果的に会いに来ているじゃない」
「先輩。私のことが好きになってきちゃったんですよね」
彼女は一つずつの言葉を、深く地面に埋め込むように口から放った。さっき耳にした、缶ジュースの落ちる音が頭の中で当てられたけれど、本当はもっと重い音がするはずだ。彼女の目は静かで、何が斬りかかってきても、その静寂は変わらないかもしれない。私の言葉も、彼女には無力だった。心からの言葉を選ぶ彼女に、私の言葉が勝てるはずがなかった。
「会いたくないのは本当だった」
「好きですね?」
「話が逸れている気がするのだけど」
「先輩」
彼女の大きな目の中に、確かに大人の影が動いていた。彼女はもう幼さを曝け出して、結論を曲げることも、ましてや阿って懐柔することもしない。鮮やかなワンピースの中で、会わなかった時間で確かな取捨選択をくり返してきたことが伝わった。そうして私を手放さない一心を研いできたのだ。彼女は、もう本を貸し借りする関係には戻らないと決意して、ここに来たのだ。これからの時間を天秤に乗せても、ここに来ることを決めた。その事実を、私は認めないわけにはいかなかった。
「好きだよ」
口から転がり落ちた言葉に、彼女は目をさらに大きくして、私を丸ごと見つめた。何一つ逃さないように。蛇が獲物を丸呑みする姿を想像して、私は笑った。それを見て彼女は怒ったように眉間を寄せたが、私の言葉を反芻して、それを堪えたようだった。
「知っています」
ミルクティーを勢いよく飲み干して、彼女は私の前に身を乗り出した。そのまま、私の何も塗っていない唇に、彼女は自分の唇を擦りつけるようにキスをした。お互いに目を開いたまま、いっそ勝負を挑むようにきれいに見つめ合ったまま、口づけをしていた。離れたあとは、お互いに辛抱たまらず、笑い声を上げていた。私たちは滑稽だった。
関係を築かなければ、私は一人で大きな穴を眺めて居られたのに。
吹き上がる空が、私たちの上で、春を跳ね返すように明るく広がっている。彼女の白いショートブーツの爪先に、小さな黒い傷ができていた。
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