渋谷・煩悩の街を走るということ/異生羝羊心なう
深く深く深く自分を知るということは、遠く遠く遠くから自分を観るということなのではないか、という予感がある。
この予感は、今私が生活の中で縛られている思考の枠、言葉の枠の外に出られる予感、と言い換えられるかもしれない。枠の外には、もう少し豊かな世界が広がっている気がする。それが何かはまだわからないけど。
この予感と共に、私は今、京都のお寺と、高野山に修行に行こうとしている。今は渋谷で暮らしているのだけれど、東京でのサラリーマン生活がどうにもしっくりこなくなってしまったからだ。前の職場の同僚や上司に知れたら『気が触れたのか』とか言いそう笑。
特に私は仕事に関しては保守的な考えが強く、定年まで勤められて、いわゆるネームバリューがある会社を就職先に選んできたからなおさらだ。(前職の会社を選んだ理由は、通信インフラと電柱や電線が好きだったというのもあるけれど…)
東京で暮らしていると、いつも頭の中が忙しい。雑音で、身体の声も心の声も聴こえなくなる。
いつも、オーウェルのディストピア小説『1984』のビッグブラザーみたいなヤツが、群衆を撹乱、コントロールするためのノイズを発生させてる・・・みたいな不穏な気持ちになる。
いつも頭の中がざわついて、あっちへ行ったりこっちへ行ったり忙しいと、空回りしたり、相手を傷つけたり、自分を傷つけたりすることが多々ある。
とりあえず京都や高野山にいけばそのざわつきと距離をとれる。もしくは、ざわつきに撹乱されない自分になれるのではないか?という気がするのだ。
もちろん理由はそれだけじゃない。何故に寺・・・?ともよく聞かれる。それは今までいろんな本や作品に触れてきて、仏教に関する知識や想いが貯まってきてはいたのだけど、ついにコップが一杯になって溢れて突き動かされている感じ、といったら伝わるだろうか。
こんなことは、一生のうちでおそらく一回だけだ。
せっかくなので、棚卸しも含めてどうしてこんなにも仏教、特に私は空海や真言宗の教えに沼ってしまったのか、何回かにわけて記事にしていこうと思う。
最後に、東京や渋谷について前半でだいぶディスりましたが、面白いことだってあるんです・・・。
最近私は休職し時間ができたこともあって、朝走って推しのお寺までお参りしています。
表参道を走って、西麻布の長谷寺、永平寺別院。
福井県に本山がある曹洞宗の禅寺で、修行が超厳しいことと、スティーブジョブズが亡くなる前に最後に行きたがったことで有名なお寺の、別院です。
早朝に行くと、一休さんみたいな若いお坊さんがたくさん掃除&修行されています。
西麻布なんて日本で有数の煩悩の街に、日本で一番厳しい禅寺の別院があるんです。
これは、『あえて』なんでしょうか。
そしてここの観音様、私、激推しです。
写真ではなかなか伝わりませんが、めっちゃ大きい。
観音様って、温かくて柔らかくて、母性的な光のことが多いんだけど、ここの観音様に初めてお会いしたとき、天から細い鋭い光が降りてきて、胸にぽんっと入ったんですよね・・・。
温かいし柔らかいけれど、背筋がしゅっと伸びる感じでした。全部見透かされてるんだろうな~って感じ。
煩悩の街の観音様はしなやかでブレない。女性的な強さってこういうことか、という学びでした。
この観音様にご焼香とろうそくをお供えしてから、お堂の中のベンチでマインドフルネスさせていただくのが休職してからの日課になりつつあります。
私は注意力散漫で、マインドフルネスはデバイスとアプリが必須なので、その辺も紹介できたらいいなと思います。
Photo by Yoichi Ochiai