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蝶 #2000字のホラー

父は僕が物心つく前に家を出た。母は三人姉妹の長女、父は婿養子だった。父母は二階に、祖父母は一階に生活していた。見合い婚。読書や音楽鑑賞が好きな父は帰宅すると自分の部屋に籠り、ひとりの時間に興じた。彼はしだいに家族の中で孤立していく。

条件だけで結ばれた結婚は血で繋がれた三人と、父との間の溝を拡げどうにも修復できない。養子としての肩身の狭さ。父は鬱憤を母に向け、暴力を奮った。堪りかねた祖父が出て行けと命じた。これが僕が聞いている経緯だ。

現在は二階は使われていず、誰も足を踏み入れない。父の話はタブーになっている。事情を知らない訪問客が

「坊ちゃんはどっち似かな」

と尋ねた時、母は咄嗟に

「私に似て、ほら、同じ位置にほくろがありますでしょ」

と応える。その返答があまりに素早いのでなんだか僕は申し訳なく思う。僕には父の記憶が殆ど無い。覚えているのはのっぽの上の、眼鏡をかけた神経質そうな横顔だけだ。

父母の寝室の真下が僕の部屋だ。僕は自分の部屋よりも、納戸で過ごすのが好きだった。障子を通してうすい日が差し込む。その中に三角座りをして一日中、何も考えずじいっとする。誰にも邪魔されずにすむ至福の時間。

僕は友達と野球に興じるよりも、猫と遊んだりひとりでぼうっとするのが好きな子供だった。ある日納戸の奥の襖を開けると本が積まれていた。その中に「あむばるわりあ」という、へんてこな題名の本があり、開くと小さな字がびっしりと並んでいた。西脇順三郎の詩集だ。

僕は納戸の中でその本を繰り返し読んだ。
中でも「雨」という詩に心惹かれた。


南風は柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。


「この静かな柔い女神の行列が/私の舌をぬらした。」という箇所にくると僕の下腹部から全身が熱くなり震える。ギリシャ神話の美しい女神が雨の中をやってきて、僕の顔を両手でやさしく包み、僕の舌をぬらす……そういう夢を何度もみた。

ある日また読んでいると、いきなり納戸の襖が開かれた。母が怖い顔で僕を見下ろしていた。彼女は僕の手から詩集をひったくると、奥の本も出して、庭に投げ捨てた。その上から灯油をどぼどぼかけ、マッチで火を点けた。

母がバケツに水を汲みに行っている間に僕は「あむばるわりあ」を炎の中から取り出して、自分の部屋の本棚の裏に隠した。幸い雨の詩のページは無事だった。夜になり皆が寝静まってからこっそり読んだ。ときおりは小声で口ずさむ。そして夢の中で女神が来るのを待つ。

朗読するうち、僕はおかしな事に気づいた。僕の声に遅れて低い声が聴こえるのだ。最初は気のせいと思ったが、違う。明らかに大人の男の声だ。何だか音楽の輪唱しているみたいだ。不思議と怖くはない。

僕は毎晩詩を朗読し、謎の男との交歓をたのしんだ。だがそのうち男の声に異変を感じた。何か違う言葉を言っているようなのだ。それは「にかい……にかい……」と聴こえる。

僕は天井を見上げた。夜中、懐中電灯を持って二階への階段を昇った。二階の電気は止められている。電灯の灯りに生活の痕跡が浮かびあがった。テーブル、ソファ、レコードプレイヤーが片付けられずそのまま置かれていた。

僕の部屋の真上は寝室だっけ……。僕は覚束ない足取りで寝室を探した。あった。扉を開ける。暗がりの奥に大きな長持がみえた。電灯の灯りで金具が光った。その時、長持の方角からあの男の声が聴こえた。


この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。


僕は一階へ駆け下りた。翌朝、思い切って三人に尋ねた。

「夕べ、ミイが二階へ昇って降りてこないから、探しに行ったんだ……」

飼い猫のせいにした。三人の顔が固まった。

「昔の、お母さんの寝室に大きな長持があったんだけど、あの中に何が入っているの……」

母が怖い顔をしていきなり僕の手を引っ張った。

「ごめんなさい、許して!」

痛くて涙が出た。祖父母が割って入り、母を止めようとするも効かない。腕を引っ張られたまま、引き摺られるように二階へ昇った。母は長持の前で立ち止まるとようやく僕の腕を離した。箪笥の中から鍵を出し、長持の鍵穴に挿し込んだ。

「よく見なさい、何もないわよ!」

叫ぶと一気に蓋を開けた。中は暗くてよく見えない。が、確かに何も無いようだ。

「二度とおかしな事言わないで」

双眸が火のように吊り上がっている。暗がりでも分かった。今まで見たことのない形相に射竦み、震えた。そのとき長持の中から白い蝶が出て、僕の腰のあたりを舞った。

「あっ蝶々……」
「いないわよ」

蝶は僕の身体を一周すると、煙が消えるような感じで消えた。


結婚し、家を出て二十四年になる。蝶の話は誰にもしたことがない。
ただ、詩集を朗読する際ときおり、あの男との輪唱をたのしんでいる。




(2000字)