「動的平衡ダイアローグ」を読んで
先日、東京に行った折に、福岡伸一著「動的平衡ダイアローグ」(発行所:小学館)を読んだ。
去年も東京に行き、著者と坂本龍一の共著「音楽と生命」(発行所:集英社)を買って、空港で読み始めて、ワクワクした。
noteに読書感想ブログを書き始めたのも、「音楽と生命」から。
本書は、福岡先生と斯界有識者との対談集。対談相手は、小泉今日子に始まり、カズオ・イシグロ、平野啓一郎、佐藤勝彦、玄侑宗久、ジャレド・ダイアモンド、隈研吾、鶴岡真弓、千住博の9人。
全くジャンルの違う方々との対談で、どういうつながりがあるのやら、という感じだけど、まぁ、福岡先生らしいか。個性的な話ばかりで、あっという間に読み終わった。
流れるような固体
著者との出会いは「動的平衡」だと勘違いしてた。最初に読んだのは、「生物と無生物の間」だ。 出張先で読む本がなかった時に買ったもので、でも衝撃的だった。 生物なんて興味はなかったけど、「モノ」から「生き物」が生まれる瞬間について書いてあって、ハッとした。ビビッときて、「動的平衡」もすぐに買った。その後も、折に触れて先生の本を読んだ。
本書でも、「人間の細胞は、常に入れ替わっていて、それでも同じ人になる。これが”動的平衡”っていうんだ」と説いていた。安定の福岡節。
先生曰く、鴨長明の「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」と同じようなもの。だそう。
小泉今日子との対談では、人は蚊柱と同じようなもの、と言ってた。
ユニークな視点に、いつも感心させられる。
記憶
数年ぶりの同窓会で会った仲間は、「子供の頃のあの人」のはずがない。けど、「変わらないなぁ」と思ってしまう。太ったり、痩せたり、10年、20年前とは、違う自分になっている。にも関わらず「同じ人」と思えるのは、何故なんだろう。
五感を通して脳に入って来る、同窓生の情報は、「今」。
でも、頭の中にある相手の情報は「昔」のもの。
「今と昔」は、どうつながっているのだろうか。
対談相手の一人であるカズオ・イシグロ氏は、5歳の時に渡英し、以降、イギリスで暮らしているそうだ。
イシグロ氏が日本について考える時の「日本」は、今の「日本」と違う。そして、イシグロ氏の頭の中にある「日本」は、歳を重ねるほどに、色褪せていく。 だからこそ、「記憶と想像の中の出来事を鮮明に残しておく」と氏はいう。 それが著作という作業、と言い切っていて、何だかカッコイイ。
切り取って残していけば、それは「永遠」になっていく。
・・・いやいや、そんな抒情的に言わなくったって、noteに書き残したものは、noteがなくならない限り残ってるよなぁ、とも思うが・・・
平野敬一郎氏との対談では、「分人」という概念が出てきて、玄侑宗久氏との対談では、「人が変わった」と言っていた。
これほどまでにあれこれと「記憶」出来るのは、人間が生き残っていくために身に付けた固有の能力だという。
まぁ、今の人間の能力では、記憶は薄れ、時と共に変わっていくので、「記憶+想像」になっていく。 記憶と想像は、どうつながっているのか・・・まるで夢物語のよう。
本書は、どの人の対談も、興味深く読めた。
(敬称略)