【小説】it's a beautiful place[26]「男は女を見送るもんよ。逆はありえん」
26
別れ際、アパートの前。バイバイ、と手を振ると、龍之介は窓を開け、手を伸ばしてきた。私はその手を握った。龍之介の大きな掌に包み込まれて私の手の骨はきしきしと鳴った。硬く熱い手のひらだった。
「手、荒れてるね」
「毎日ダンボールと戦ってるからな」
「ハンドクリーム塗らなきゃ」
「だな。またこんな風に言われちまうわ」
その時、私はこれから龍之介が誰か他の女の手を握る事を想像した。嫌だった。けれど、それを口に出せる訳がなかった。島人の結婚は早い。あと一、二年以内に龍之介は結婚するだろう。長男なら尚更だ。早く結婚して子供を作り、親を安心させてあげた方がいい。そう頭ではわかっていながらも、私はそれを受け入れられなかった。
「そんな顔するな」
龍之介が笑ってそう言った。
「奈都もこれから」
龍之介の言葉を遮り私は言った。
「いい人が出来るなんて絶対言わないで」
龍之介が俯き、小さく呟いた。
「阿呆、無理してでも言わんと」
「嫌」
「わっがまま」
「そうだよ」
そうだよ、と私はもう一度胸の中で呟く。本当にそうだ。本当に私はわがままだ。けれど、龍之介はそれにまた笑った。いつものあの笑顔だった。
「あ、お前、荷物どうするの?」
「普通に宅配便で送るけど」
「なら、俺に任せろ。一番安い金額で送ってやるわ」
「本当? 結構多いよ」
「大丈夫。俺は集配にはいかんけど」
もう会いたくないから? そう口に出しそうになった。龍之介がそれを察して、すぐさまこう言った。
「地域の担当があるからさ。担当の奴に言っておくわ。今日の午後でいいか」
「うん。美優の分もお願い」
「わかった」
話す事がもうなくなり、私達は手を握り合ったまま、しばし路上で風に吹かれた。また明日ね。そう言えたらどんなにいいだろう。また明日ね。そんな風に気軽に別れられたら。
「じゃ」
龍之介がそう言った瞬間、私は思わず龍之介の顔を見上げてしまった。そんな顔するな。いつもそう言われていたあの顔をしてしまったのだろう。龍之介は一瞬、胸に何か鋭い刃物を差し込まれたかのような表情を見せた。握られていた手がゆっくりと離れていく。私の手が力なく体の側面に落ちる。
「お前が先に行け」
龍之介が言った。
「嫌よ、龍之介が先に」
「男は女を見送るもんよ。逆はありえん」
龍之介は笑ってそう答えた。
その笑顔をもう一度見たい。いいや、本当は一度ではなく二度でも三度でも見たいのだ。けれど、それはもう叶わない。私は頷き、アパートの階段の前へと行った。
きしむ階段を一歩一歩上る。赤錆が手につくから手すりには掴まる事は出来なかった。服やバッグが手すりに当たらないように気を付けて上っていった。こんな風に気をつけながら毎日この階段を登った。今時、滅多にお目にかかれないようなぼろアパート。
龍之介の視線を背中に感じた。堪えていた涙が龍之介に背を向けた途端に溢れ出した。これを手で拭ったら泣いている事がばれてしまう。だから、私は溢れる涙をそのままにして階段を登った。視界が濡れて遠く歪む。ここで足を滑らせて下に落ちたりしたら笑えるな。そんな事を考えた。いっその事、それでもいいじゃないかと思った。それで怪我でもして、そして島にいる事を引き伸ばしてしまえたら。そんな馬鹿な発想をしてしまうくらいに私は振り向きたくて、そして龍之介の元に戻りたくて、なのにその癖、足は勝手に階段を登っていった。
外階段からアパートの廊下に入る前、私は横を向いたまま手を振った。泣いている顔を見られたくなかった。
クラクションが鳴った。もう一度鳴った。
「奈都」
龍之介がそう叫んだ。瞳の端に龍之介が大きく手を振っているのが見えた。私は、それに答えずにアパートの廊下に入った。
エンジン音を何度か響かせた後、車は走り去っていった。私はアパートの廊下の壁にもたれ、その音を聞いていた。このぼろアパートの壁は薄い。今ここで声をあげて泣く訳にはいかない。それでも涙はぼろぼろと零れ落ちて、私の頬を熱く濡らした。さっきまであんなに近くにいたのにもう会えない。まだ、体がその認識に追いついてこなかった。頭の後ろに感じた龍之介の唇が、握り締められていた手のひらが、乾いた熱を今でも放っていた。
廊下の一番奥の部屋のドアがかちゃりと開く。美優がドアの間からそっと顔を出した。
「奈都ちゃん」
口を開けてそう言う美優の顔を認めても、私の涙は止まらなかった。
「奈都ちゃん」
サンダルをつっかけ、美優が私の所まで来た。腕を掴まれ、そのまま引っ張り上げられて私は部屋に入った。
玄関で靴を脱ぎ、ちゃぶ台の前に行こうとした。けれど、足が言う事を聞かなかった。私は上がりかまちの前で座り込んだ。
「さっき、奈都って男の人の声が聞こえたから」
美優が私の様子を伺いながらそう言った。私は、抑えようとしてそれでも溢れた言葉をもう留められなかった。私は、嗚咽の隙間から言った。
「龍之介」
「え」
美優が驚いてそう聞き返す。
「龍之介と寝た」
「嘘」
「ついこの前に、私」
美優が信じられないというように口を空けていた。すぐ近くにあるその姿すら滲んで見えた。涙の塩分で頬が乾いていた。もう、直接二度と呼べない名前を私は呼ぶ。龍之介。もう一度呟く。そうしたら、今までの全部の面影が胸に広がった。それに耐え切れなくて、私はしゃくり上げながら言った。
「龍之介、優しくて、私はもう帰るのに、夜明けの海見たいって言ってたからって見せてくれて、それで」
東京なんて言ってただろ、だったらなんで。龍之介が言ったあの言葉が胸に迫る。だったらなんで。私はもう一度自分に聞く。
まだ一緒にいたい。こんなにも名前を呼びたい。こんなにも会いたいのにどうして。龍之介が言いたいのはその事で、その気持ちは私も一緒だった。私は胸の内にいる龍之介の横顔に答えるように叫んだ。
「大好きなの。私だって大好きなの。一緒にいたい。明日も明後日もしあさっても一緒に。龍之介もそう言ってくれた。島にいろって。でも、私、帰るの。酷いよ。人の心かき乱すだけかき乱して帰るなんて」
私の肩を掴んで声を荒げた龍之介が、自分から手を離して去っていく龍之介が胸に蘇る。今頃、きっともう龍之介は和泊に着いている。あの夜を過ごしたあのベッドのあるあの部屋で、次の仕事までのわずかな時間眠るのだろうか。いや、きっと眠れないだろう。今頃こんな風に龍之介の胸にも面影が蘇っているだろう。きっと、この島のどの道でも、どの場所でも、そう夜明けの海を見る度に龍之介は思うのだろう。勝手に来て勝手に去っていった私の事を。
私は畳にどんと拳を置いた。
「あんな風に優しくしてもらう資格なんて私ないのに。会わなきゃよかったって言われても仕方ないのに」
涙でかすむ視界にふっと美優の姿が見えた。畳に下ろした拳にぬくもりが触れた。美優の手だった。
「そんな事ない」
美優は静かに言った。もう一度繰り返した。
「そんな事ないよ」
私は首を横に振り言った。
「忘れたいって言われたって」
その言葉を制して、美優は言った。
「私、忘れないから」
美優は一瞬目をそらし、それから私の目をしっかりと見詰めた。掌で私の頬の涙を拭った。それから少し笑ってこう言った。
「奈都ちゃんの事も、拓巳の事も」
泣き疲れた私に、荷物は私が出しておくから、と言って美優は眠る事を薦めてきた。私はそれに従い、布団にくるまった。寝床の中でも龍之介の面影が離れず消えなかった。もう会えないなんて嘘だと体中が言っていた。けれど、それでも島を出るまではもうあと二十四時間もないのだ。
目が覚めると時刻は夕方だった。部屋の荷物はあらかたなくなり、狭い狭いと思っていたこの部屋もがらんと広くなっていた。明日出る前に生ごみ捨てなきゃね。そう言いながら美優は冷蔵庫の整理をしていた。何か嘘みたいだね。私はそう答えた。
「昨日は拓巳とね」
美優がそう言い出したのは夕暮れが近付いた頃の事だった。夕焼けをこの島で見るのはこれが最後だ。私達はそう言い合い、二人で麦茶を持ち、窓辺にいた。昨日、奈都ちゃんの様子、ここから張り付いて見ちゃったよ。美優は少し笑って言った。その言葉通り、また網戸が外れていた。張り付き過ぎだと言って私も少し笑った。
「二人で話した。今まで、地元での事も全部。怖かったけど、言わなきゃって」
「うん」
私は静かに答えた。美優が自分でその決断をしてくれた事が嬉しかった。美優は喉をそらして笑って言った。
「拓巳って本当馬鹿だよ。今までの地元での話したらさ、『なんで俺が近くにいなかった』って言ったんだよ。その時、私と拓巳、まだ会ってもいないっていうのにさ。どう考えても無理なのにそんな事言うから。私、本当笑っちゃって」
膝の上に顎を乗せ、美優は言った。
「嬉しかった」
「うん」
私は頷いた。美優の顔が夕陽に照らされて赤かった。
「前にさ、海は全部いろんなもの溶かしてくれるって言ったじゃない。私ね、あの言葉で全部、溶けた気がした。今までの事全部」
「うん」
「あんな風に言ってくれる人、今までいなかった」
「変な金髪で、うるさくて、おっちょこちょいで馬鹿だけど」
「うん」
「酒に飲まれるし、惚れっぽいし、不器用ですぐ玉砕して、また酒飲む馬鹿だけど」
「うん」
「島の男は最高だよ」
「うん」
「最高だったね」
「うん」
私達はそう言い合って麦茶のグラスで乾杯をした。
「私達も最高だったね」
美優がそう言って、少し笑った。