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言葉の流星群 | 池澤夏樹
宮澤賢治の世界を作家にして詩人の池澤夏樹が解きほぐす。
世間は最初から生活の濃い影を作品に重ねるような読みかたでこの詩人を理解しようとしたが、ぼくはそういう姿勢は好まない。生活よりも才能の方が大きかった人の場合、伝記を重視すると才能が生活のサイズまで縮んでしまう。
ほんとそれ、と大きく頷く。
視点、イメージの広げかた。ケンジの世界観をそのままに、贅沢な指南を享受する。私が欲しかった形。
彼は近い人を力のかぎり愛しながら、遠い人々と交信しようと試みた。数十年後の世代に属するわれわれは彼にとって遠い人々であるが、しかし作品を通じてわれわれは彼と交信することができる。
SNSで見かけた詩の一片に、私は一瞬で魅了された。こんな交信をケンジさんは思ってもみなかったでしょうね。
作者はいきなり「水仙月」という名前の月があると言う。三月三日があるように水仙月の四日がある。
ケンジ作品は独特な造語が魅力の一つ。そこをピックアップするだけでなく、さも当たり前に言うよねということを「三月三日があるように」と表現。最適解。
軽いというのはこの人にとってずいぶん大事なことだったのだろう。
ケンジさんにとってすべての現実は一種の昇華の過程を経た上で詩や童話になる。その不思議な錬金術の過程で文学が生じるのだ。ケンジさんは遠いものと親しくつきあうのがうまかった。近いものを遠くするために詩の言葉が紡がれ、登場人物は人から動物になり、全体が夢幻的な雰囲気の中に置かれる。
時間や空間をいきなりシフトして別の世界に行ってしまうことの最大の利点は、今ここの卑小なる自分からの解放である。今から逃れるのではなく、今の自分を保った上で、それだけではない、より大きな全体に属するものとしての自分もあると再確認することである。
私が欲しかった言葉。欲しかった表現。
未読のケンジ作品がまだまだたくさんあるという楽しみとともに、池澤氏にも興味津々。次につながる読書って幸せ。
余談。
本当にごめんなさいなのだけれど『銀河鉄道の父(門井慶喜著)』は挫折しました。
父政次郎の、我が父を彷彿とさせる言動にイライラが募り(永遠の反抗期)、生活の影が色濃いのも苦手でした。でもケンジさん、あなたはとても愛されていましたよ。重力が増すほどに。