見出し画像

元モーレツ社員が淡白社員になるまで

「ハイ、よろこんで!」な勢いで0時過ぎ帰宅が日常茶飯事だった20代から、
「これ、私の仕事ですか?」と線引きしながら17時退社を死守する、もうすぐ36歳の女です。

なぜあの頃ギラギラしていたのか、
そして今、なぜヒラヒラかわすようになったのか、
適応障害&鬱を経て変わっていった仕事観を振り返ってみようと思う。

今回はちょっと長くなりそうですが、悪しからずお付き合いください。

新卒入社のモーレツ時代

新卒入社した会社はクリエイティブ系。
第一志望の会社に入社できた私は、燃えていた。

デザイン学校の在籍中、繰り返し言われたのは「これでいいや、は駄目だ。これがいい、にしなさい」という言葉。
要するに、妥協するべからずということだな。

その精神と、元来の気質である心配性&人の良さ(笑)が、モーレツ社員化へと推し進めていったように思う。

モーレツ社員とは :
仕事に非常に熱心で、長時間労働や休日出勤をいとわずに働くサラリーマンを指す

当時入社したときは、従業員20名くらい。
しかし展開する業務規模は大きすぎて、全社員一丸となってやらないと、回らなかった。

業界大御所への取材を1人で対応したり、
大きなイベントの統括や司会を任されたり…
いやはや、もうあんなガクガクな経験はしたくないね。

さらに、WEBサイト構築やSNSやまわりのデジタル業務も任されることになった。
まだDX化という言葉がなく、
だけどもIT化という言葉は広まりつつある時代。

私たち昭和後期〜平成初期生まれは、Windows98が世に出た頃に小中学生という、時間と好奇心に満ちた年齢だった。例に漏れず、私は流行りの自作HP開設に夢中だったし、高校もPCが触れる商業科を選んだ。

そういった情報を把握していた会社から、白羽の矢が放たれたのでしょう。
とは言え、ほとんど独学の趣味範囲でWebサイトを作っていたくらいだ。サーバ言語やSNSマーケティングは全くの素人。いま考えると怖いことさせてたなと思うね。

話が逸れた。
それでも、既存業務量が大きく減ることはない。従業員数は変わらないのだから。
しかし、なんと悲しいかな…デジタル業務も、既存業務も、私は楽しんでいたのです。
純粋に面白かったから!

それなのに、空気読めすぎHSPさん(当時は知らなかったし多分無かった言葉)の気質をバリバリ放っていた当時は、周りの不協和音や業務の滞りが放っておけず、首を突っ込みすぎた。
そんなん、8時間じゃあ足りなさすぎる。
自分の仕事量が管理できていないマンの典型。

昭和のモーレツ社員みたいな働き方をして、0時帰宅とかも日常。なのに給与は入社時から全然上がる気配はなくて、ボーナスも無いに等しい。
年収は300万ちょっととかじゃなかったかな。

異職種へのチャレンジ

入社して約8年。30歳目前。夫と婚約して将来を真剣に設計したとき、給与額と馬車馬的な働き方では立ち行かなくなると悟り、転職を決めた。

転職先は、システム開発会社。
選んだ理由は2つ。
前職でWeb制作を任されるなかで、どうしてもカスタムが必要なときに、修正すべきサーバ言語が全く分からなかったので、理解したかったのがひとつ目。
昔からPCが好きで、Webサイトやらプログラミングやらを商業科高校で楽しんでやっていたことが2つ目だ。

未経験歓迎の転職先では、3ヶ月の研修をみっちり受けた。お金をもらいながら学べるなんて、すごい投資だと思うよね。

そして、いざプログラミングの研修スタート。
演算やif文やループ処理とか、簡単なものは本さえ読めば誰でもわかる。なんたってプログラム「言語」だから、構文さえ覚えれば良いのだ。
しかし、オブジェクト指向だの、カプセル化だのという、「概念」と言えばいいのか…そういった応用編で躓いた。

これからプログラミングを学ぼうとしている方へ。

初心者が理解するコツは、「深く考えすぎないこと」「頭より手を動かして数をこなすこと」だと思います。
こういうものなんだと浅く知るところからで良いのです。

数学の方程式の成り立ちを説明できる人はなかなかいない。それと同じように、とりあえず「こういう方程式があるんですね〜」くらいのノリがちょうどいい。
プログラミングは、全体を俯瞰したり細部を見たりを繰り返すことで、アハ体験のように急にストンと落ち着く時があるので、諦めないで!

熱く語ってしまった。話を戻そう。
さて、私は「なぜ?」という疑問よく持ちタイプだったのがいけなかった。
研修期間は理解できるまで講師が付き合ってくれ、これまた終電コースという日々を送っていた。迷惑千万である。感謝しかないです。

それから客先常駐の案件もリーダを任されるくらいにはそこそこやれるようになったけど、SEはさまざまな言語を、最新の情報を、自らキャッチアップしていかなくてはいけないという試練がある。

会社によっては、ひとつの言語を極めるタイプもアリなのでしょう。うちの場合はそうでは無かった、と思う。

現に、スキルアップマップみたいなものが社内評価として存在しており、努力するほどに給与も上がるという仕組みだったかな。

私は長期間の案件が多く、案件が変わったとしても同じような開発環境が続いており、新しい知識を学ぶためには、自主鍛錬が必要だと感じていた。

しかし、SES(客先常駐)や自社内で行う受託業務は、基本的には 業務時間=開発時間として見積もりに入れている。
だからガッツリ自社業務や自己学習を堂々とはできない。

加えて、案件とは別の社内リーダーも任されており、メンバーの報告書を見たりフォローしたりという業務もある。
業務時間の隙間にやりくりしながら捌いたとて、自己学習の時間までは取れないので、必然的に業務時間外となる。

どうしたらいいんか…と悩み、上司と相談しながら騙し騙し過ごしていた頃、妊娠がわかった。

育児という24時間業務

東京住まいの私が地方の里帰り出産を計画していたころ、ちょうどコロナが騒がれ始めた。

出産に関しては超長くなるので割愛するけども、産後の生活は想像を絶するものでした。
物理的に眠れない、常に不安、ピリピリ。
初産で分からないことだらけなのに、感染予防で対面での相談はほぼ無理。
頼れるのは実母の知識とネット情報と育児本。
それらの知識を総動員しても解決されぬようなら、手当たり次第試してみるしかない。

産後1ヶ月経ってから東京の家に帰宅したわけだが、私は夜泣き対応で常に寝不足。
産後数ヶ月は、夫は夜泣きでは全く目が覚めなかった。男性の本能なんでしょうかね?
(数ヶ月後にようやくアンテナが張りはじめたのか、夜間対応も任せられるようになった)

睡眠時間ほぼ皆無の24時間体制の育児生活を過ごすなかで、とてもじゃないがこのライフサイクルでは職場復帰なんて出来ないと思っていた。

いちばんの決め手は、私の奇行。
寝不足すぎて、精神不安定すぎて、夜間のお世話が終わった後、自分の頭を自分でガンガン壁にぶつけていた。こっわ。やっば。
産後母体の精神状態は、人格を変えるほどだわね…

結局、育休取得予定の4ヶ月を大幅に延長して、一年半後。
娘は1歳クラスから保育園へ入園し、私はフルタイム勤務で復帰を果たした。

当初は時短希望だったけど、なぜフルタイムか?会社から打診があったのと、夫の会社の制度の方が充実していた、という理由から。
通常時短取得できる従業員の条件は、法令が定める最低ラインの「子が3歳まで」。うちの会社は法令通りだったのだけど、夫の会社は「子が中学に上がるまで」だったのだ。ホワイト〜

ならば夫に時短取得してもらった方が、長い目で見たときに安心だということに落ち着いた。
私より残業が多い夫も、これで早く帰宅できるというものだ。

私は1年半ぶりのプログラミングに不安を感じていたけど、割とすぐに勘を取り戻せた。
なにより、大人と会話できる幸せ!仕事には区切りがあって、それを終えた時の達成感!
そして育休前よりも、プログラミングの理解が早くなってきた実感があった。
躓いたと思ったら、少し離れてみるのがいいのかもしれない。
リーダー業務も、上司に配慮していただいてお役御免となった。やった!

その勢いで自己学習にも力を入れようとしていたのだけど、やはり帰宅後にPCを開くことはできなかった

子どもの夜間授乳が無くなったとて、夜泣きは簡単に落ち着かなかったのですね。
寝かしつけにも1、2時間はかかる。

私が20-21時くらいに帰宅して、
夫の用意してくれた夕飯を食べる。しかし寝ていたはずの娘が夜泣きで起きれば、風呂に入る間もなく対応する。
夜泣き対応は私の方が成功率が高かったし、娘と接する時間が全然無いから、抱っこなり触れ合いもしたかった、という思いもあった。

でも寝落ちしてしまうことも多く、夜明け前に目を覚ましてシャワー→そのまま朝支度という悪習慣は、なかなか改善方法が見つからなかった。

こんな働き方は、体力のあるうちしかできない。
出産を経たとはいえ、30代ってこんなにも体力気力が続かないものなんだって、初めて知った。

出産前と同じく、やはり自己学習時間の捻出に試行錯誤しながら過ごしていた頃、魔の2ヶ月がやってきた。

実家の困難・案件の変更

いま思うと、以下の2つの要因が、適応障害に至る引き金となったように思う。

①叔父の訃報、実母の負担

こちらの話は別の記事で少しまとめたので、詳しくは割愛します。

このときに感じたのは、多分。
真面目に必死に生きてきたとて、理不尽な不幸は容赦なく、突然訪れる。

困難を抱えている実家・親族に対して、何の手助けもできない自分に罪悪感を感じてもいた。

②案件の変更

育休明けから一年以上対応していた案件から、自分だけ離脱することになった。
会社としては、もう少し上流工程から、もう少し上のポジションを確立してほしいというねらいがあったようだ。

だけども、私の気持ちは穏やかではなかった。
変更先の案件は、いままで触れたことのない開発環境だったので学び直しが必要だったし、そもそも進行上の混乱もすでに巻き起こっていた案件だった。
もちろん上司にも相談したし寄り添ってはいただいたけども、覆ることはなかった。

自己学習の時間も捻出できない、家では寝不足、実家への罪悪感、しかしステップアップしたいという気持ちもある
そんな様々なストレスが渦巻いていたとき、身体に違和感が出てきた。

過呼吸、突然の涙、動悸、震え、異常な眠気、生理前でもないのに激しい落ち込み等。

これはおかしい。
きっと、このままこの環境にいたら大変なことになりそうだと感じ、フワッとした気持ちで転職活動を少しずつ進めてみた。
並行して、メンタルクリニックにも予約を入れた。受診は約1ヶ月後。

転職活動は心が元気になってからすべし

メンタルクリニックの受診まで、密かに緩やかに求人を見ていたのだけど、出会ったエージェントがよくなかった。
かなりガツガツ系で、熱量に差があると感じて立て直しの会話をしても、どうも噛み合わない。
それで、もっと気持ちの落ち込みがひどくなってしまった。
当たり前や🙃

ま…、当時はメンクリに行ったとて、何らかの病名がつくというより安定剤みたいなものを貰えるくらいだろ〜というテンションだったのだから、ご容赦願いたい。

このまま転職活動するのは、きっと精神的に非常に危ないと察し、ひとまず休みたいと思うようになっていった。
上司に、率直にいまの精神状態を相談した。心身状態が怪しくて、メンクリを予約していること。転職退職も視野に入れていること。

この上司、実は私と同期ということもあって、かなり理解を示してくれた。苦行研修を乗り越えた仲ですからね…。最近私がヒーコラしている様子も気にかけてくれていたらしい。
休職までの手続きとしては、
①メンクリから診断書をもらう
②産業医と面談する
という2つの手順を経る必要があった。

メンクリで適応障害の診断書をもらう

さて、すっかり休職するぞ!休むぞ!という気持ちでメンクリを受診。
最初の30分はカウンセラーにヒアリングしてもらい、その後は医師の診察。
状態を見るに、抑うつ状態で適応障害と言えるでしょう、とのこと。
そのまま診断書をもらい、帰宅。

正直言って、この段階では「適応障害」という病気の深刻さは、分かっていなかった。
私の場合、この後が酷かったのだ……

話せばまた長くなるので、こちらも割愛。
そして文章量が長くなったので、こちらもバッサリ割愛します🙃
詳しくは下の自己紹介記事をどうぞ↓

働きすぎないを目標にした社会復帰

休職〜退職、そしていつの間にかの鬱を経ながら仕事をやろうという心持にまで回復した私は、もう、理想を追いかけないことにした。

ハイ、よろこんで!なモーレツ労働は、体力も精神力もお金も足りない。

なんとかスキルを磨くために時間を捻出しようと子育てとの両立を試行錯誤するフルタイム勤務も、同じく体力と精神力が足りない。

でも、私は私を追い込んでしまう
もう、鬱ピークのあの状態にはなりたくない。
ならば物理的に、制約的に、線引きされた環境に身を置こうと思って選んだのが、派遣社員だ。

派遣社員という働き方は、これまで知らなかったけど、いまのところ私にはとても合っている。

これまで私を支配していた「やらねば」「やりたい」「私じゃなきゃ」という、謎の強い使命感やら責任感から解放された働き方なのだ。

こんなこと言ったら、なんて無責任な!と批判の声が聞こえてきそうだけど、キッチリやることはやるし、受け身で待っているだけでもない。

ある種の言い訳や逃げ道が用意されているという「支柱」が、私を助けてくれているんだ。

あと、「自分がやった方が早い」癖も無くなった。
派遣社員はいずれ去ってゆく身なので、属人的にしてはいけないというブレーキをかけてくれる。

というか、それはあなたの仕事です。とボールを返すことが、自衛にもつながるのだなとはじめて知ったこの頃です。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集