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文体は思考を規定するのか

本屋で立ち読みしたときに面白い言葉を見つけました。

言語は思考を規定する

これはサピア=ウォーフの仮説という言語学の話でよく使われる言葉で、平たく言うと「使う言語によって思考も決まってしまうよね」という仮説です。

よく例に出される、カナダの北極圏に住む民族の話があります。
彼らは常に雪と共に暮らしているので、雪を表現する言葉が200個以上もあるそうです。日本語にも「粉雪 (こなゆき)」「細雪(ささめゆき)」など雪に関するさまざまな表現がありますが、とても200個はなさそうです。

「ということは、僕らと彼らでは雪に関する思考も異なるのでは?」という話。とても興味深いですが、実際は200個もないとか発言者が不明だとか情報が不正確で、説自体も「流石に『言語によって規定される』は言い過ぎじゃない?」と言われているようです。

ですが、言語によって語彙や表現が異なるのは事実です。例えば映画のタイトル英題と邦題が違いすぎるとSNSで取り上げられているのをよく目にします。

対応する語彙がなくて表現が変わってしまうことがありますが、それよりも「アメリカ人は意見をハッキリ主張する」「日本人は遠慮がち」といった、文化的な背景の影響が強いように思います。

「日本人が英語を話すと性格や声の高さが変わる」なんて話も聞きますが、言語自体の特性というより、その言語が話されている文化の違いが大きいように思います。

「言語は思考を規定する」
これを文章や文体で考えてみたらどうだろう。と思いました。


「です・ます調」と「である調」
ブログやコラム、エッセイなどの文章でよく見かけるのこの2つ。「ですます調は優しくて、である調は強い印象」みたいな話はいろいろな場所で見かけるので今回は書きません。

僕が思ったのは「文体は読み手ではなく書き手の考え方にも影響するのではないか」ということ。

今はですます調っぽい雰囲気でnoteを書いていますが、以前はである調で書いていました。理由は「なんか論客っぽくてカッコいいから」です。その時点で全然カッコよくない……

でも実際、書いているときに「なにかを論じている・鋭いことを言っている」ような気分になったのも事実です。その気分に乗せられて、つい過激な主張をしてしまったり、強い言葉を使ってしまうこともありました。

社会問題に切り込むジャーナリストや、強い意志を持って何かを伝えたい人たちはそういう文体が合っていると思います。でも、僕の場合はただ自分の頭の中を整理したいだけです。

である調で書いていたときは、書き終わって整理できた頭の中を見てみると「書く前より主張過激になっていない?」と思うことがありました。あれこれ工夫するうちに味付けが濃くなってしまった料理みたいな感覚。

「〇〇は〇〇である」と書くと、それが唯一絶対の正解みたいに思えてしまうことがありました。なので最近は言い切ることはやめて「AはBだと思います」くらいふわっとした主張に変えました。

思考を整理したいとは言いつつも、すべてを白か黒かに分ける必要はなくて、曖昧なものは曖昧なままでいいんです。

何かをプレゼンしたり社会的な立場を表明して行動する場合は白黒ハッキリした態度が求められますが、自分の頭の中くらいはグレーでいいじゃないか。

長々と着地の弱い話を書いてしまいましたが、1番感じたことは無意識に文体に思考を引っ張られていたんじゃないかということ。その文体を選択したのは僕ですが、一度選択したスタイルに囚われてしまっていたなと。

「文体は読む人に与える印象を左右しますが、書く本人の考え方にも影響するかもね」という話でした。


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