神は細部に宿る
「神は細部に宿る」
これはゼミの先生の教えだ。
いつか話したと思うけど、私は文芸創作の勉強がしたくて、そういう勉強ができる大学を選んで進学した。第一志望には受からなかったけど、レベルが落ちたとはいえ、4年間好きな勉強ができたことをとても幸福に思っている。
4000字程度の小説を執筆・発表し、教授・ゼミ生みんなで批評し合うゼミに所属した。大学内でも特殊なゼミだったと思う。
教授は東大卒の現役作家で、有名な賞を受賞したこともある人だった。入学するまで知らなかったけど、巷では結構有名な作家らしい。そんな先生から直接批評を頂けるなんて、よく考えれば素晴らしい機会だった。
“4000字でまとめる”というのは、私たちに課せられたひとつのボーダーラインだった。先生も、若い頃は、短い話を毎日書き続けていたという。続けていくうちに、いつしか長い小説が書けるようになったらしい。だから先生も、私たちにそれを課したのだ。
4000字できちんとまとめ、完結できる者が優れた書き手だと評価された。その4000字の中で、どこかに欠陥があったり、完結していなかったりすると、先生はもちろん、ゼミ生皆がそれを突つく。
ずっと4000字で書きなさいというわけではなくて、先生が生徒の実力を認めると、字数制限が外れるシステムになっていた。だから、ゼミ生たちは字数制限が外れることをとても喜んでいたし、私も早く外れるといいなぁと思いながら作品を書いていた。
作品は何を書いても良いというわけではなかった。先生はファンタジーに対してだけは厳しく、「書くのが大変、4000字ではまとめられない、4000字以上書けるようになってから臨みなさい」というようなことを常々言っていた。
先生の著書にもファンタジーはある。だけど、構想に何年もかかったし、さらに執筆、校正を重ね、発表するまでにも相当な時間を費やしたらしい。
だから、4000字でまとめられない奴が書くんじゃないってことなのだと思う。先生は自分がこうだったからこうした方がいいって言うし、こうだったからそれはダメと言う人だった。
小説を書いたことがある人はわかると思うのだけど、小説を書くって本当に骨が折れる。趣味で書いているなら自由に書けるだろうけど、人前で発表する以上は、“きちんと”書き切らなければならない。
どんなに短い作品でも、“何か物語を始めて、完結させる”というのは難しい。そう簡単にできるものじゃないのだ。
起承転結があって、登場人物が動き出して、読後に何か考えさせられるものがあって。その上、文章だって整っていなければならない。ただ言葉を繋げるだけじゃだめ。人の心に響く文章を綴らなければ。
細部まできちんと構成されていること。
細部にまでこだわって書かれていること。
細部まで手が行き届いている作品は、やっぱり完成度が違う。
先生は、細部までボロがない作品に出会うと、あと細部がぼろぼろの作品に出会っても、「神は細部に宿る」と繰り返し言った。
「神は細部に宿る。
細かい所まで丁寧に、こだわって書きなさい」
如何にボロを出さず、精巧に作りこまなければいけないか。そうでなければ突かれるとわかっているので、書いている時から、「これって有り得るかな、有り得ないかな、有り得る風にするには上手く説明しないと」、とか無駄に考える癖がついてしまった。だから私の書く小説はいつも言い訳がましい。
(こうやって突き・突かれかれながら作品を作ったり読んでいたせいで、私生活で読書をしたり、ドラマや映画を見たりしていても、「いやいや、それは有り得ない、説得力がないでしょ」とか突っ込んでしまうから正直ちゃんと楽しめなくなってしまった所が否めない)
ゼミ生は皆レベルが高かった。偏見なのだけど、小説を書く人にまともな人はいないと思う。普通の生活を送っていて、「そうだ! 小説を書こう!」と思う人はあんまりいないはずなのだ。だからゼミ生も当然、ほとんどの人が変だった。もちろん先生も変だったけど。
一般人から見たら受け入れてもらえない、独特の感性をお持ちの人ばかりだったので、みんなの書く小説は、やっぱり奇想天外で面白かった。それに、批評の着眼点も秀逸だったし、そういう意味でもとても勉強になった。
作品発表の時は、自分で書いた小説を朗読することになっていた。作品を仕上げることはもちろん大変だったけど、それ以上に朗読のことを考えると、自分の番が回ってくるのは苦痛だった。自分の書いた小説を、静まり返った空間で朗読しなきゃいけないなんてただの辱めでしかない。
でも、ゼミ生からもらう批評の中には「声が良い」と褒めてくれる人もいて、そうやって支え合って、この苦痛を乗り越えていた。
他にも、先生の教えには「性と暴力は書き得」というのがあった。先生はエログロ系の話を書くと大変喜んで評価した。
「人間の奥底に眠ってる本能として、性と暴力は避けられない」
そういう描写があると、人はつい読んでしまうらしい。怖いもの見たさ、と言った所だろうか。
あと、どんなにつまらない物語でも、性描写と暴力シーンを書けば面白くなる、盛り上がるみたいなことも言っていたような気がする。そういう描写が山場になるらしい。
(その話を聞いて以降、小説やドラマ・映画で性描写や暴力シーンに遭遇すると、「ここが書き得! 見せ場なのね!」と思うようになったし、なんなら、「性描写や暴力シーンを書かないと面白くならないのかな(上から)」とまで思うようになってしまった)
変わった嗜好をお持ちの学生さんが集まっていたことも相俟って、エログロを書く人・書きたがる人が多かった(先生が評価してくれるから書くという人もいたのかもしれない)。中には、びっくりするほど気持ち悪い話を書く人もいたので、批評するこちらの身にもなって欲しいと思った。でも、そのお陰でなんだかその界隈の言葉を覚えた(嬉しくない)。
ゼミ生の作品の中に、設定そのものがバイオレンスな小説があった。暴力シーンと性描写のオンパレードだったのだけど、終わり方がすごく雑だったお話に、私は少なからず怒りを感じたのを覚えている。
ラストはセリフのみだった。台本でもこんなにセリフは続かないだろうと思うくらいセリフしかなくて、無理矢理終了。エログロ描写を書きたいだけの小説だとまるわかりだった。
そもそも、文芸創作ゼミに居てセリフ連発で物語が終わるなんてあるまじきと思っていたのに、先生はその作品をえらく評価した。
ストーリーになってなくても、終わり方が雑でも、暴力シーンと性描写がよく書けていればいいの?
意味がわからなくて、エログロの書けない私は、もうここでやっていけないかも、とさえ思った。
他の生徒はもっとたくさん、記憶にないくらい先生に褒められているのだろうけど、私はゼミの中で出来損ないだった。褒められたのは指折り数えられる程度。先生の好きそうな話は書けなかったし、それを差し引いても、私の書く物語はつまらなかったと思う。
だけど、学科の中では(実は)首席だったので、その時は「頭が良いなら、えぬをゼミ長にすれば良かったなぁ」とぼやいてくれた。有り難いけど、私にはクリエイティブな才能がないから、みんなから憧れられるゼミ長にはなれなかっただろう。
他の子たちはゼミ終わりに先生の家で飲んだりしたけど、私は先生の家に行ったことがない。先生だって、家に遊びに来てくれて、「先生、先生」って慕ってくれる子は可愛かったはずだ。
だから、そういう生徒に対して、特別に評価が甘くなることがあった。僻みかかもしれないけど、私にはそう見えた(先に述べたエログロを書きたいだけの生徒とか)。
それを悪いと咎める気は毛頭なくて、なんていうか、そういう人の懐に入ったりすることができない私は、全く世渡りが下手だなぁと思うのだった。
先生に最初に誉められたのは、ゼミで最初に作品を発表した時だった。ストーリーテラーの才能があるとまで言ってくれた。あと毎回批評が可愛いと言われた。
先生の授業は、ゼミ以外にも“クリエイティブライティング”というものがあった。ラブレターや俳句、怖い話などを書いたり、クラスメートをインタビューして記事を書くというような授業で、文字通りクリエイティブにライティングする授業だった。
その時には、俳句が上手だとも言ってくれていたし(たったの一回だけだけど)、あと、インタビュー記事は毎回面白いって言ってくれていた(インタビューする相手が面白かっただけかもしれない)。
最後に褒められたのは卒論で、「どこに出しても恥ずかしくない」と最高の批評を頂いた。最後だからお世辞かもしれないと、全然信じていなかったら、先生は何度も「本当だからね!」と繰り返し言ってくれた。
先生は、私がゼミで上手くやっていけていないことをちゃんと、見抜いてくれていたのかもしれないなぁ。
卒業してからも、オープンキャンパスに顔を出した時に偶然、先生と再会したり、後輩の卒業式でばったり鉢合わせたりしたことがある。
先生はこんな出来損ないのことをきちんと覚えてくれていて、しかも「随分垢抜けて、社会人らしくなって」と褒めてくれた。素直に嬉しかったけど、私が先生に褒められたいのは外見のことじゃないんだよなぁと改めて思った。
「神は細部に宿る」という先生の教えを思い出したのは、仕事中だった。高校生が大学や専門学校に見学に行く際に使用する地図を作る仕事。正確な地図を作らないと、生徒が迷子になってしまうから、責任重大な仕事だ。細部まできちんと作り込んでいかないとなぁと思った時だった。
「神が細部に宿るのは創作だけではなく、どんな仕事もそうなんだ」と思って書き始めた記事なのに、ただの教授との思い出話になってしまった。
どんなことでも、細部がボロボロだったら、細部に一つでも欠陥があったら、やっぱりそれは美しくないし、いつか崩れてしまう。
先生の教えは、創作することだけじゃなくて、人生においても役立つことだったのか。
細部までこだわって、美しく仕上げられる人になりたい。
この教えは一生忘れないだろう。
缶コーヒーをお供に働いているので、1杯ごちそうしてもらえたらとってもうれしいです!最近のお気に入りは「ジョージア THE ラテ ダブルミルクラテ」(160円)。今日も明日も明後日も、コーヒーを飲みながら仕事がんばります!応援のほど、どうぞよろしくお願いします。