こんなnoteでも作品なんです。
エッセイを書くことも読むことも大好きだった。
なのに群発頭痛が悪化して痛みで眠れない日々になり、眼の奥をえぐられる様な痛みと視力が弱っていく感覚で失明が怖ろしくなった。
それでも表現することをやめたくなくて短い時間に作歌できる短歌をはじめた。
しばらくは楽しかったもののXにあげるためにCANVAで生成することや自前の写真を用意することの負担がのしかかった。
おまけにほとんど外出できない私の短歌は瑞々しさに欠け、凡庸でつまらないものに映る。
年齢が達したことでやっと群発頭痛のための帯状疱疹ワクチンを接種できることになり、
夏から秋にかけて接種することになった。
ワクチンは2か月の間隔を空けて2回。
1回目の副反応では40度の高熱とともに関節痛と肩と脇がパンパンに腫れ、次回接種を躊躇ってしまうほどきつく出た。
副反応がでても日々の頭痛に比べたらマシだと思った。それくらい群発頭痛には苦しめられ、日々、生きる感覚が麻痺するほど悲惨だった。
すべての接種を済ませると頭痛は嘘みたいに出なくなり生きている感覚を徐々に感じた。
けれど、長い間の痛みから不安感が酷くなっていて、少しのことでボロボロになっていく。
ちょっとしたことが不安で怖い。
以前、別の場所で書いていた時の出来事やいわれたことがトラウマになってフラッシュバックする。
うまく書けない、他人の作品を読むのに時間が凄くかかり、文章も遠回しな表現しかできなくなった。
以前のように書けないことへの焦りが襲う。
1記事上げるのに1日中へばりついて書いてみたものの終わらずに、2日かかるようになり、3日、4日・・・とかかっても仕上がらず、中途半端な下書きが溜まるようになった。
いまなら書けるかもと思った時、深海に潜るように息を止めて一気に書きあげた。
noteへ上げる。
納得とはいかなくとも、久々に書けたことに高揚感に気持ちが満たされた。
その作品が数日経ってある人に二次創作された。
ショックだった。
ショックなのに私はコメントでわざわざお礼を述べた。(右の頬をぶたれたら左の頬を出しなさいってキリストか?成人君主か?自分でも呆れる)
その人は私とは雲泥の差で人気があり、私は仕方ないと思ってしまったのだ。
その人は文章はうまいし、コミュ力に長けている。
作品がアップされれば瞬く間にこぞってみんながスキを押し、コメント欄の返しもうまいため、いつでも賞讃のメッセージで溢れていた。(もちろんその人がフォローしている人に対してのスキやコメントの早さは努力だと思うし見張るものがある)
けれど・・・
だからといって無断で二次創作されたくなかった。
こんな文章でも私にとっては作品だ。
吐きながら這いつくばって意識がもうろうとする中、いのちをけずって書いてきた。
そんな風に見えないかもしれない。
けれど、たいせつなたいせつな作品。
何度見直しても誤字脱字を見落としてしまうし、文章も変だったりする。
上げてから何度も手直しすることも多いけど、書けたときの悦びは私が私として生きていることを感じさせてくれる。
正直、このnoteを書くことをとても悩んだ。
揉めたくない。私が我慢すれば済むこと…と思った。
もし、コメント欄で私がなにかを訴えても作品数や出来の良さでいったら圧倒的な差から私が難癖をつけているようにみえるだろう。
事情のわからないnoterさんやフォロワーさんからヤバいヤツ認定されて、何を言っているんだと思われるだろう。
だから飲み込む?
ほんとうにそれでいいのだろうか。
どんなに考えても答えが見出せず、飲み砕くこともできなかった。
要領のいいひとが、
コミュ力のあるひとが、
うまくいってもてはやされるのはしかたないとは思う。
けれど、作品を無断でベースにされていいことにはならない。
私はプロの作家でも、賞をもらったこともなければ、褒められるようなこともない。
毎日、数十円をやり繰りして、半面ホットカーペットを弱でつけて飼犬と暖をとるそれだけの人だ。
けれど、私にとってnoteで書くことは、表現であり、一部であり、たいせつな作品なのだから。