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【歴史】中先代の乱の概要と佐々木道誉

中先代の乱(なかせんだいのらん)

近年、北条時行をモチーフとした人気作品に、松井優征氏の『逃げ上手の若君』がある。同作品について筆者はまだしっかりと読めていないが、同氏の前作『暗殺教室』は非常に面白かったのでぜひ読んでみたいと思っている。

さて、この主人公の時行は実在した人物で、本文章で述べる「中先代の乱」の主要人物であるが、この戦いにはすでに紹介済みの佐々木道誉も大きく関わっているので、一度、ここで取り上げてみたい。

・概要
建武2年(1335年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児・北条時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。挙兵からわずか1か月ほどで足利直義を破って鎌倉奪還に成功した。


・中先代の乱の経過
鎌倉幕府滅亡後、建武の新政により、鎌倉には、後醍醐天皇の皇子・成良親王を長とし尊氏の弟・足利直義が執権としてこれを補佐する形の鎌倉将軍府が設置された。しかし建武政権は武家の支持を得られず、北条一族の残党などは各地で蜂起を繰り返していた。北条氏が守護を務めていた信濃国もその1つで、千曲川(信濃川)周辺ではたびたび蜂起が繰り返され、足利方の守護・小笠原貞宗らが鎮圧にあたっていた。

建武2年(1335年)6月には、鎌倉時代に関東申次を務め、北条氏と繋がりがあった公家・西園寺公宗らが京都に潜伏していた北条高時の弟・北条泰家(時興)を匿い、持明院統の光厳上皇を擁立して政権転覆を企てた陰謀が発覚する。公宗らは後醍醐天皇の暗殺に失敗して誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかけた。

信濃に潜伏していた北条時行は、御内人であった諏訪頼重や滋野氏・仁科氏らに擁立されて挙兵した。時行の信濃挙兵に応じて北陸では北条一族の名越時兼が挙兵する。諏訪氏の縁続きに当たる保科弥三郎(保科氏)や四宮左衛門太郎(武水別神社神官家)、関屋氏ら時行勢は青沼合戦において船山守護所(小笠原貞宗)を襲撃した。この間に諏訪氏・滋野氏らは信濃国衙を焼き討ち襲撃して、建武政権が任命した公家の国司(清原真人某)を自害させる。

ところが、京都の建武政権は当初、反乱軍が時行を擁しているとの情報を掴んでいなかったらしく、京都では反乱軍は木曽路から尾張国に抜け、最終的には政権のある京都へと向かうと予想したために鎌倉将軍府への連絡が遅れ、それが後の鎌倉陥落につながったとみられている。

勢いに乗った時行軍は武蔵国へ入り鎌倉に向けて進軍する。7月20日頃に女影原(埼玉県日高市)で渋川義季岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍を、小手指ヶ原(同県所沢市)で今川範満の軍を、武蔵府中で救援に駆けつけた下野国守護・小山秀朝の軍を打ち破り、これらを自害あるいは討死させた。続いて、井手の沢(東京都町田市)にて鎌倉から出陣して時行軍を迎撃した足利直義をも破る。直義は尊氏の子の幼い足利義詮や、後醍醐天皇の皇子・成良親王らを連れて鎌倉を逃れる。

鎌倉には建武政権から失脚した後醍醐天皇の皇子・護良親王(前征夷大将軍)が幽閉されていたが、直義は鎌倉を落ちる際に密かに家臣の淵辺義博に護良親王を殺害させている(7月23日)。鎌倉に護良を将軍・時行を執権とする鎌倉幕府が再興され建武政権に対抗する存在になることを恐れていたからと考えられている。

7月24日、鎌倉将軍府側は鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)にて最後の抵抗を試みるが、佐竹義直(佐竹貞義の子)らが戦死、翌25日に時行は鎌倉に入り、一時的に支配する。更に時行勢は逃げる直義を、駿河国手越河原で撃破した。直義は乱の報告を京都に伝えると同時に成良親王を返還し、8月2日に三河国矢作に拠点を構えた。

時行勢の侵攻を知らされた建武政権では、足利尊氏が後醍醐天皇に対して、時行討伐の許可と同時に武家政権の設立に必要となる総追捕使征夷大将軍の役職を要請するが、後醍醐天皇は要請を拒否する。

8月2日、尊氏は勅状を得ないまま出陣し、後醍醐天皇は尊氏に追って征東将軍の号を与える。尊氏は直義と合流し、9日に遠江国橋本(静岡県湖西市)、12日に小夜の中山にて尊氏と同道してきた今川頼国の手により名越高邦戦死、14日に駿河国の清見関および国衙にて諏訪小二郎金刺頼秀(諏訪大社下社社家)が戦死、17日に相模国箱根、18日に相模国相模川で尊氏方は義経来の北条方に遺恨を持つ中村経長が獅子奮迅の働きをするも今川頼国・頼周兄弟が戦死するなど各地が激戦に見舞われた。時行勢は次第に劣勢となり戦線は徐々に後退。19日には相模国辻堂で敗れた諏訪頼重が鎌倉勝長寿院で自害して、時行は鎌倉を保つこと20日余りで逃亡する。

※このために「廿日先代(はつかせんだい)の乱」の異名もあるが、一般的には先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。

※諏訪頼重自刃の時、時行は「天下五剣」の一つで、自らが肌身離さず持っていた北条家の宝刀「鬼丸国綱」を置いていった。頼重らは面の皮を剥いで自害したので、時行も死んだと勘違いしたという。

後醍醐天皇は尊氏へ出陣の許可は与えなかったものの、8月30日の小山朝氏への下野国司兼守護への補任は尊氏の奏請に応じたものと考えられ、また間に合わなかったとは言え九州の大友貞載に出陣を求める綸旨を出していることから、少なくてもこの段階では尊氏と天皇の方針に大きな違いはなかったと考えられている。ところが、9月27日になり、尊氏は鎌倉において、乱の鎮圧に付き従った将士に勝手に恩賞の分配を行うため袖判下文を発給し、建武政権の上洛命令を無視したりするなど、建武政権から離反する(延元の乱)。

北条時行に従った武士には名越氏のような北条氏一門もいたが、大部分が諏訪頼重のような御内人であった。彼らの中には千葉氏・宇都宮氏・三浦氏などの関東有力武家の庶流の出身者が多数含まれており、結果的に関東武士が多数含まれることになった。これに対して佐竹氏・小山氏などの関東の御家人が鎌倉将軍府側に加わり、更に既に将軍府に出仕していた旧幕府吏僚や御内人の多くも時行の動きには従わずに、直義とともに鎌倉から脱出している。このため、鎌倉に入った時行は公式の幕府文書を発給することが出来ず、御内人のみで出せる得宗家の奉行人連署奉書で命令を下している。そして、建武政権に仕えていた旧幕府吏僚や御内人の中にも尊氏とともに時行討伐に参加する者がおり、時行および御内人の挙兵は結果的には御内人同士の戦いとなって鎌倉幕府再興の可能性を失わせるとともに、室町幕府や鎌倉府を支える吏僚層を形成するきっかけとなった。


・時行その後…南北朝の内乱(1336年 - 1392年)
北条時行は鎌倉を逃れた後も各地に潜伏し、南北朝成立後は吉野の南朝から朝敵免除の綸旨を受けて南朝に従い、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦った。

延元2年/建武4年(1337年)から翌年
鎮守府大将軍・北畠顕家新田義興(義貞の子)と共に杉本城の戦い足利家長(斯波家長)を討って自身にとって2度目となる鎌倉奪還に成功し、顕家の遠征軍に随行して青野原の戦いで顕家らと共に土岐頼遠を破った。ところが、遠征軍は和泉国(大阪府)で行われた石津の戦いで執事・高師直に大敗、遠征軍の長の顕家は敗死したものの、時行は生き残った。

正平7年/文和元年(1352年)
時行は再び義興らと共に武蔵野合戦で戦い、初代鎌倉公方・足利基氏を破って3度目の鎌倉奪還を果たした。しかし、この奪還も短期間に終わり、逃走を続けるも、翌年足利方に捕らえられ、鎌倉龍ノ口(神奈川県藤沢市龍口)で処刑された。


・佐々木道誉の活躍

中先代の乱の鎮圧には佐々木道誉も従軍していたことは以下の記事でも少し触れた。
【歴史】佐々木道誉の経歴と人物|赤田の備忘録

道誉は戦の中で目覚ましい活躍を見せている。


建武2年(1335年)7月
北条時行が挙兵、鎌倉を攻め落とす。

8月2日
足利尊氏は後醍醐天皇の許可のないまま出陣する。

8月12日
道誉、小夜中山(掛川市)の戦いに出陣。

8月17日
箱根・水飲峠(三島市)の戦いに出陣。

『足利宰相関東下向申次』によると、道誉の部隊が北条軍の敵将を討ち取る手柄を挙げていることが確認できる。箱根を超えた相模川の陣でも、道誉は赤松貞範と共に渡河作戦を行い、北条軍の背後に周ってこれを混乱・潰走させた。↓

8月18日
相模川の戦いに出陣。増水期の相模川を真っ先に渡して北条勢を破り、名を挙げた。
『太平記』天正本には、この相模川合戦についてかなり詳細に記録されており、『平家物語』の宇治川先陣の場面を再現しようとしている記述が窺える。

サレハ路次之間数ケ度ノ合戦二打負テ名超式部大輔心ハ矢武二思エ共兵過半減ケレハ相模川ヲ引超シテ水ヲ隔テ支タリ時節秋ノ時雨一通シテ川浪岸ヲ浸ケレハ敵無左右不渡卜手負ヲ助馬ヲ休テ敗軍ノ士ヲ集卜常陸大橡大河端二楯突双テ透間モ無□タリ懸処二佐々木佐渡判官入道河ヲ前二当テ敵ノ支タルハ当家ノ遁レヌ所也元暦ノ美談今ニアリ不叱渡者不レ可レ有トテ打立ケレハ赤田神保吉田箕浦宗徒物共十四五騎河端二打伍テ我先二馬ヲ打入ント進ケレトモ暗サハ闇シ渡瀬モ不レ知且猶予シケル処二赤革ノ胄二白羽ノ征矢負テ鴇毛ナル馬二乗タル老翁一人現シテココヲ渡セトソ教ケル道誉喜テ彼翁ハ軍ノ意見ヲ問トスレハ書消様二失ケリ是即佐々木大明神ノ云二現シテ被レ示ツ霊記也卜憑敷思ケレハ道誉馬ヲ打入レテ流レヲ斬テ被レ渡タリ新屋三郎先懸シテー陣二進ケルヲ常陸大橡川中二支テ妥ヲ不破卜防ケルニ鏃如>雨ニテ透間更無リケルニ新屋ハ忽二被レ打ニケリ是ヲ見テ道誉自太刀打シテ敵二人川中二切テ落シ支ル敵ヲ追払ヒ一文字二川ヲ懸挙テ此度相模川ノ先陣ハ佐々木佐渡判官入道渡シタリト高声二呼ケルニコソ御方ノ官軍カヲ得テ高越後守師泰長井治部少輔今川式部大夫佐々木富田判官赤松雅楽助貞範是等ヲ宗徒ノ兵トシテ上ノ瀬ヲハ被渡ケリ此中ニモ今川式部大夫頼国先陣二進テ渡シケルカ荒浪二推落サレテ水二溺レテ徒失給ケルコソ絲惜ケレ其ノ余ノ兵共ハ無望丁細一向ノ岸二懸挙テ東西相合前後ヲ囲テ時ヲ作ケレハ鎌倉勢敵二前彼ヲ被囲テ不叶トヤ思ケン一戦ニモ不及引ケルカ又腰超ニテ支タリ云ニテ葦名判官進ム敵二帰合テ其身ハ忽二打死スレハ若党モ皆打レニケリ
(義輝本巻十一―-「眉間尺干葵硼事」)


参考
・Wikipedia
・史劇的な物見櫓「南北朝列伝
・鈴木登美恵『佐々木道誉をめぐる太平記の本文異同 ―天正本の類の増補改訂の立場について—』

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