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【歴史】観音寺城落城の真相~織田信長と足利義昭~

音楽の話題は閑話休題とし、歴史の話に戻っていくとしよう。
前々回に引き続いて観音寺城と佐々木氏をメインにもう少しだけ見ていきたいが、今回は落城と佐々木氏・織田信長の関係性について取りあげる。

↓前々回はコチラ。
【歴史】『江源武鑑』と田中政三③|赤田の備忘録


観音寺城落城の真相

一般的に、観音寺城の落城や佐々木氏六角氏の没落は、織田信長の上洛時に対立して負けたためだと言われている。しかし、これは本当にそうであったのだろうか、以下では田中の説を基に紹介していく。


織田信長上洛のきっかけ

まずは、そもそも織田信長が上洛するきっかけとなった理由はどのようなものであったのか、少し前の出来事から遡ってその経緯について確認したい。

・永禄の変

16世紀中ごろまでの室町幕府は権威の低下が著しく、畿内を中心に勢力を誇っていた大名に三好氏などがあったが、これら大名に翻弄されるような状態であった。
しかし、12代将軍となった足利義輝の代になると、義輝は戦国大名らと交流をもち、関係の修復・紛争の調停などを行うことで幕府権力・将軍権威の回復を図るようになり、義輝は三好氏の傀儡となることなく独自の政治を行って、将軍としての地盤や影響力を高めていくなど右肩上がりの変化が見られるようになった。

一方、三好家では、永禄年間になると惣領・三好長慶の弟・十河一存三好実休、嫡男・義興を始めとする重要人物が相次いで死去し、ついには長慶自身も病死したことで、三好氏の権威は低下することとなり、大名として勢力を誇っていた三好家の権威は右肩下がりとなった。
※三好家は十河一存の子・重存(のち義継)が相続。

こうした状況の中で、将軍義輝の存在が邪魔になった三好氏は、義輝の従弟にあたる阿波の足利義栄を新将軍にしようと画策し義輝を排除しようとした。

1565(永禄八)年5月19日には、三好氏や陪臣の松永氏らが二条御所にいた義輝を突如として襲撃し、足利義輝は死亡、多くの幕臣が共に討死・自害することとなった。


・覚慶(義昭)の保護と進軍

この時、義輝の弟ですでに仏門に入り一乗院門跡となっていた人物に覚慶(のち義昭)がいた。
新将軍を義栄にしようとする三好氏らにとっては亡き将軍の弟という立場の人間が生きていては都合が悪いということで、当然覚慶にも攻めの手が及んだが、幕臣・細川藤孝の援助のおかげで無事脱出することができ、自身を匿ってくれるだろうと近江の佐々木氏を頼り、保護を求めたという。

当時、城主であった佐々木義秀は将軍・足利義輝が義理の叔父に当たるため、義昭を城内に匿うことに賛成したが、後見であった義賢は三好氏・松永氏らと秘かに通じていたため匿うことに強く反対し、結局、義昭は観音寺城ではなく、近江国野洲郡矢嶋村に新たに城館を築きそこで保護することになったという。

※後見・義賢の妻は三好氏出身であった。

この状態は2年ほど続いたが、やはり反感を持っていた後見の義賢は、1568(永禄十一)年に堅田に兵を集め、湖上を渡り矢嶋の御所を襲おうとしたという。しかし、義昭はここでも危うく難を逃れたので、若狭から越前朝倉氏を経て、岐阜城の織田信長を頼ることになった。

信長は天下統一の野望を持っていたので、将軍候補の義昭を保護したことで上洛する口実を得て、さっそく同年年9月7日には岐阜を出発する。

「天下に号令せんとすれば都に登るべし。都に登らんとすればまず近江を制圧すべし」
「近江を制する者は天下を制す」

これらの言葉が示すように、近江攻略は信長にとっての最重要項目であった。
実際に江北の小谷城主・浅井長政には妹のお市を嫁がせ同盟を結び、その浅井家を通じて越前の朝倉家とも同盟を結んでいたのである。

(→お市の方の婚姻時期については諸説ある。)

上洛を目前に、信長は近江の佐々木一族へ通行の許可と力添えを申しいれたが、これに対し、城主・義秀は承諾したものの、変わらず後見・義賢は拒否した。

そのために、義賢の本拠地・箕作城と周辺の和田山城において織田軍との戦いが起こることとなった。しかし和田山城は、織田信長の理由は正当なもので、かつ勝てる見込みもないということで無血開城をしたという。
箕作城は佐久間信盛・木下藤吉郎・丹羽長秀・浅井新八などによって攻められた結果、後見・義賢は敗走。その後、各地を転々とした結果、宇治田原で1598(慶長三)年に没したという。(逃走には木地師の協力があったことを田中は指摘する。)

この戦の後、信長は同年9月13日に観音寺城へ入城したことは確実であるが、これは落城のための入城ではなかった。
佐々木氏は織田軍の威力の前に鎧袖一触踏みつぶされたと強調されているが、これは前記のような信長に反抗した箕作城派の諸城であり、観音寺城派の佐々木氏は元通り城主として存続させているのだという。

というのも、観音寺城の入城は初めから応諾し約定を結んでのことであり、反抗しての降伏や屈服したのとは訳が違う、いわば「順応協力」であった、としている。信長はこの時、力を持っている近江源氏一族を敵とせず、味方としてその強大な力を頼りにしたかったのである。
(同書、426頁。)

※主な旗頭のうち約30%が箕作派、70%が城主派であったという。

上洛の目途がついた信長は9月14日に、義昭の元へ使者を遣わし岐阜立正寺を発ち、21日には近江柏原成菩提寺に着いて一泊、翌日22日に観音寺城内の桑実寺に到着した。
信長はここに佐々木一党の旗頭たちを加えて、24日には野洲郡守山に進み、船で大津三井寺極楽院に本陣を構え、26日には大津に軍勢が終結したという。義昭も27日に大津へ到着、三井寺光浄院に宿陣した。そして28日に全軍を率いて京都に進み、信長は洛中外の一帯を制圧、10月22日、皇居に参内し勅許を得て義昭は足利幕府15代将軍となった。

※14代将軍には前述の足利義栄が7~8ヶ月の間在職していた。

つまり、言い換えれば織田信長は、佐々木一党の力を借りて天下への駒を進めたのであり、その証拠として、家臣・太田牛一の記した『信長公記』にも佐々木系の武士の経歴が多く登場する。また信長に替わって天下を征服した秀吉も佐々木一党を重用し、佐々木氏関係者を多く召し抱え、要職には近江源氏派の武家が多かったという。
徳川時代には三百諸侯と称された大名のうち、その四分の一を超える約八十家が近江源氏流の出自だといわれている。


安土城について

また、田中が調査を重ねたところ、確実に観音寺城は信長入城時(永禄十一年九月)以後も存続して命脈を保っていたと断言している。つまり、この城は信長によって破却されたのではなく、安土城落城と運命を共にしたのであるという。
(同書、406-430頁。)

織田信長は1576(天正四)年正月に安土城の築城を開始した。
ここはもと目賀田山と称され、観音寺城の支城で佐々木氏重臣の目賀田摂津守の居城があった。信長はこれを接収した代わりに目賀田氏には望みの地に新たな城を築けと命じたため、目賀田氏は自分の故地に新しく築城したのだという。愛知川の目賀田城跡がそれである。
そして安土城は1579(天正七)年に完成した。

ここで、なぜ信長は観音寺城を取り壊さなかったのか、という疑問が浮かぶ。
安土城は観音寺城に比べれば規模は明らかに狭く小さいため、敵が観音寺城を拠点にして攻めてこようものなら、不利・危険で敗北は濃厚であると考えられる。

そこで田中は、信長は観音寺城と一体のものにする考えで安土城を築いたのではないかと推測している。つまり、観音寺山と安土山は一連の要塞であり、観音寺山を詰の丸とし、常時の居館には安土山を、という意図があったのではないかということである。
安土城は、信長の権威を全面に示す居館であり、戦闘時などの非常時は観音寺山へということであるらしい。また、この地を選んだのは、近くに津田荘があり、ここは織田家の先祖・津田家発祥の地であり、港としても有数の場所であったからであるとしている。
(同書、436-446頁。)

以上!

↓次回はコチラ。
【歴史】観音寺城における戦闘一覧|赤田の備忘録

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