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不調がとまらない

※写真は、元旦に住宅地のはるか彼方に見えた富士山です。今の私は、あの『はるか彼方の富士山』に登りたいと思っているのです。

身体の不調が始まって、そろそろ1ヶ月になります。
鼻水、咳、微熱、身体の痛み、疲れやすさ、何となく不調という状態が続いています。
あらゆる検査をしたので、とりあえず感染症でも大きな病気でもないことはわかりました。
それはそれで安心なんですが、同時にこれといった治療法や、治るまでの期間の目安というものがまったくわからず、もどかしい状態です。
そういえば、こころの不調に気づいて早めに心療内科を受診したのも、こんなモヤモヤからでした。カウンセリングや投薬も何か違うと、月一回先生に話を聞いていただくだけでしたが、半年かかってようやく「もう大丈夫!」と思えたのが昨年の12月。それと引き換えるように身体の具合が悪くなり……。
いろいろな人から、今まで無理をし過ぎたんだよ、と言われたし、私自身も無理が祟ったのかな?と思っていますが、はて、その無理とは何なのか?さっぱりわからないのです。
一つだけ思い当たるとすれば、年末のnoteに書いた『辛いと思っている自分を自分自身が認められないこと』
自分の出来る範囲や自分の立ち位置がわからないということなのかもしれません。

昔からリーダー的な存在になるのが嫌いでした。
誰かを指導したり、集団の統率を取ったりすることができません。
よくリーダーの素質を分析するのにPM理論というのが用いられますが、

PM理論 
引用:https://heart-quake.com/article.php?

私は小文字のpmの人なんですね。
謙遜でもなんでもなく、そうなのです。
しかし、真面目にコツコツと勉強や練習を積めば、成果を上げることができる(大文字のMにすることができる)、苦手な人とも拒絶することなくにこやかに接していけば、多くの人と好意的に接することが出来るようになる(大文字のPにすることができる)と信じて我慢に我慢を重ねてきたのだと思います。
そして現在は、
表面的には、人望が篤いように見えるようです。
表面的には、多くの成果を出しているように見えているようです。
しかし自分だけが、そのハリボテの姿に気づいていて、いつかボロを出してしまうのではないかとヒヤヒヤしているのです。

そういえば、仕事でもこの乖離に悩んできました。
パート職員だと、組織の意向を理解し機械の歯車のようにルーティンを乱さず、正確に成果を上げられる人が評価されます。他者の意向を理解するのが苦手で、記憶力も悪い私は、なかなか歯車として(一戦力として)成果を上げることができず、上司や仲間から煙たがられることが多かったのです。
では、組織を取りまとめる力はどうかといえば、他人に厳しく指導できない私は、部下から親しみやすい『良い人』と思われていたようです。一方で部下の行為を何でも許容してしまうので、信頼はあるものの(akbalさんなら許してくれる)組織としてまとめるための厳しさが無いゆえに組織がバラバラになってしまい、結局成果を上げることができないという『仲良し集団』になってしまう傾向がありました。
では個人の裁量で動く仕事はどうかとやってみましたが、これはこれで『個人の信用』が第一になります。仲良しこよしのゆるい関係を求める人には良いのですが、仕事として一定の距離感で成果を求める人には、「あの人は何の役にも立たない」という不全感を感じさせることになってしまいました。

『成果を上げることができない』
『集団を取りまとめることができない』
という性質は、多数派の中で自己主張せず流れるに任せて気ままにやるという心の余裕が持てないと、全てがウィークポイントとなってしまうのだと、実感したのでした。
つまり、それなりに働いて、自分の気の向くままに生きることができれば、pmの性質がウィークポイントにはならないし、世の中の大多数の人はpmだからこそ、少数のPMなリーダーに従うことができ、社会が成り立っているわけなのです。
大衆的なpmでありながら、なぜかPMの立場にならなくてはいけない!近づかなくてはいけない!と自分を追い込む癖が、自分を苦しめていたのでした。

思えば母がそれを求める人でした。
女とはいえ、バリバリ働いて上を目指し、家庭のこともこなすというスーパーウーマンでありたいと強く思っている人で、子どもたちにも「そうであれ」と間接的にもとめてきました。
幼い頃から母の価値観を取り入れて育ってきた私は、自然と「努力して人の上に立てる人、人の役に立つ人にならなくてはならない」と思い込んでいたのでしょう。
もはや意識的にそれを目標にするのではなく、無意識のうちに体が反応してしまう状態になっていたのだと思います。
だから失敗を指摘されると「まだまだだ!努力すればできるようになる!頑張ろう!」と自分を追い込み、良かれと思ってやったことを拒絶されると「これは私の振る舞いが誤解を生んだのだ。今度は誤解されないように身の振り方を考えよう」と自分の行動を見直そうと必死になり、相手が嫌なことをしてきても「相手を正しく理解して受け入れなくてはいけない」と我慢をし、何とか自分を変えようと変えようと頑張り続けてきたんだと思います。

無理が祟って……

その『無理』とは、別にハードワークをこなしたからではなく、休憩する時間を取らなかったからではなく、本来の自分のキャパシティや性質を考えずに、違う自分を目指して自分を変えようとしてきたことなのかな?と思います。

最近付き合う人にPMの人が多くなったということも影響しているかもしれません。
本当にPMの人は、ものすごいエネルギーを持っていて疲れません。(疲れるでしょうが、疲弊するほどになりません)
全方位に意識が向いていて、多忙なのに細部までよく見通すことができ、優先順位を付けることができます。
そして何より「この人に付いていけば安心だ」という安心感を周りに与えるので、周りの人に大樹に寄り添っているような心地よさを与えてくれます。
この圧倒的な違いに気づきながら、自分はとても及ばないと心から認められずに、少しでも学び取ろうと必死になっていたのだと思います。
そうなれない自分に悔しさを感じてしまっていたのだと思います。
心の不調は前職のストレスだと自覚しました。
前職になぜストレスを感じたのかは、生育歴から植え付けられた自己否定癖が原因だと自覚しました。
生育歴で受けたことを分析していくうちに、自分の傷を認めてあげられるようになりました。
そこでだんだんと気持ちがほぐれて心の不調は良くなりました。
次に身体の不調が来ました。
幼少期の心の傷どころか、私の性格、生き方そのものが親から植え付けられ、自分には合わない選択をしないと居られないという思い込みの上に成り立っていることがわかってきました。

頑張ることは良いことではなく、本来の自分への裏切り行為である

でもがむしゃらに間違った方法で生きてきた私が180°方向性を変えることはなかなか難しい。
だからといって、そのままで放置しておいてはいけない。
30°でも60°でも変える努力をしていかないと、本来の私からどんどん遠ざかっていくよ!

身体の不調は最後の最後のエンプティランプなのでしょう。

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