自分は謙虚な方だと思っています。 美しくないし、地味だし、自己主張しないし、他人を優先するし、言いたいことの半分も言えないし…… 一方で、そんな自分を否定している自分がいます。 私だってメイクを工夫すれば美しくなれるはず 本当は注目されることが好き 他人のことより自分のことの方が大事 他人のために我慢するなんてあり得ない 小さい頃からこの乖離に悩まされてきたような気がします。 自分の意見を言うとワガママと叱られる 友達と違うことをすると「もう遊ばないよ!」と脅される 私よ
『相手に腹が立つのは、自分自身への不満のあらわれ』 『自分に体力がないと誰かを助けることができないし、かえって相手を傷つけたり負担をかけたりすることになってしまう』 そんな教訓を目にしました。 確かに……。 ようやく毒親の呪縛から逃れられるところまでたどり着いた私は、これまで誰かにとても不満を持っていたし、誰かを手助けしようとしてかえってうざがられるということの繰り返しでした。 毒親の洗脳の真っ只中にいた時には、体力があっても見当違いのところに使っていたし、その見当違
近くの飲食店の前を通りかかって、ふと胸がきゅっと痛みました。 フラッシュバック 以前、飲食店の外であった出来事が蘇ってきました。 ある趣味のサークルで食事をしたあと、店の横の駐輪場で、その趣味の仲間の一部が集まっていました。 新しく入ったばかりの人たちは先に帰ったのですが、私はその中では古くから居た方なので、その集まりに顔を出そうとしました。 ところがその中のリーダー的な人から「あなたは大丈夫」と、帰るように促されたのです。 私が自転車を出そうとしていると、「おめでとう」と
『最後の乗客』を観てきました。 予告動画からはなんとなくストーリー展開が予想でき、きっと感動する話だろうなということもわかるのですが、実際に観てみると、震災の前も後も変わらない日常や人のつながりがあるのだなと気付かされ、自分もスクリーンの中の住人と一緒にいるような気がしました。 * おそらくネタバレにはならないと思いますが、この映画をこれから観に行こうと思っている方は、以下の感想で察しがつくこともあるかもしれないので、ご注意ください。* 東日本大震災をテーマにしているの
人に見つかりたくないのに、見つけてもらえないと悲しくなるという、矛盾した心を抱える私ですが、社会に対しても、同じような恐れと憧れがあることに気づきました。 昨年就いていた有期性の職について 散々な目に遭って、もうやらない方が良いだろうと決断したにもかかわらず、やっぱりまた応募してみようかな?などという気持ちがわいてくるのです。 いったい自分は何をしたいんだろう? いったい自分は何を心配しているんだろう? 細かく分けて考えてみると、見えてくるものがあります。 そもそもな
小学生の私は、かくれんぼでもドッチボールでも、逃げ回ることが得意でした。 ある時、体育館でかくれんぼをしていました。 何かの行事の後片付けのあとだったと思います。 その時もぜったいに見つからない自信がありました。 私は舞台に上がる手前の中階段のような場所に身を隠しました。さらに下に下ると幽霊が出ると噂のある舞台地下に通じています。 そのときは、鬼役の子にぜったい見つかってはいけないと思っていたので、絶好の場所を見つけたとワクワクしていました。 中階段には使われなくなった机が
これまで、自信の無さを克服したくて、いろいろと分析してきました。 夏までは特に、昨年思い切ってチャレンジしたことがかえって心の傷を深めてしまい、それを癒すのに苦労していました。 まさかそこまで深い傷になって後々まで尾を引くとは思っていなかったし、そんなに自分がヤワなのかと情けなくなるので、傷ついていることを認めたくなかったんです。 けれど完全に鬱の入り口に足を踏み入れていたのですね。 「これはマズイ!」と思って早めに病院に掛かりました。 まだ入り口程度だったので、どうしようも
*お出かけ先で、空に獅子が現れました! あー、言ってあげたい! 忠告してあげたい! 助かるヒントを与えてあげたい! 私の病気、おせっかい病です。 そもそも『仕事』というのは、こういう気持ちがあるからこそ、あるいは最初は収入目当てであっても、こういう気持ちを育てつつ、自分を奮い立たせることで続けられるものだと思うんですね。 販売業だったら、売った製品がお客さんを助けるとか、お客さんに喜ばれるとか。 教育関係だったら、お子さんが成長し、親も喜ぶとか。 配送業だったら、お客
自分が死んで幽霊になった夢を見ました。 奇妙な夢だなと思っていたんですが、もしかしたら最近観たドラマの最終回で、主人公の死後、幽霊になって家族のその後を見守るシーンがあったので、インスピレーションを得たのかもしれません。 夢の中では、自分は余命を宣告されていたようで、すでに死んでいるのですが、「あら?やっぱりその時が来ちゃったんだな」くらいの軽い気持ちで死を受け止めているのです。 むしろ自分が死んだことで、家族が私のことを話題にしているのを面白おかしく見つめています。 この
信用していた人との行き違いは何とか落ち着いたのですが、私が放った言動や態度が私が思うのとは全く違って、相手を傷つけていたことがわかりました。 もちろん相手の側の過剰反応も大きかったので、その言動がまた私を傷つけ、さらに攻撃するという応酬だったことがわかりました。 相手の気持ちがわからないから、相手を傷つけるようなことを言ってしまう それならば黙っているしかありません。 けれど今回は、相手の気持ちが分かるからこそ、何とかしてあげたくて、先走ったアドバイスをしてしまったことが原
私が信用すると、依存気味になってしまうのか? 信用していた人から、私の態度について逆上され、落ち込んでいます。 私があけすけに言った言葉が、相手にとっては馬鹿にされていると感じられたらしく、その前に私がお願いしていたことに関しても、気遣いや礼儀もなく、不服だったと言われてしまいました。 そんなことを言われるまで、自分の横柄な態度に気づきもしなかった私。 こんなことは一度や二度ではなく、子ども相手にしても、余計な発言を悪いタイミングでしてしまい、不信感を買ってしまうことがあ
また、自分の感情から乖離した。 最近、このような『離自感』こそが問題なのだと気づきました。 私の行動の原動力はきっと、『人がそれを見て、どう感じるのか』というところにあるのだと思います。 主体性をもって 自分の意思を大切に 自分が中心 などなど、生きるためには自分がどうしたいのかが大切であることなど、あちこちで聞かされて耳にタコができそうです。 頭でわかっていても、常に『人に』どう見られているのか、どんな印象を持たれているのかばかりを気にしてしまう私。 自分ではベストだ
将来の夢に向かって努力する、勉強する 自分はどのような人間になりたいのか目標をもつ。 子どものうちに、生き生きと無邪気にそんな思いを持ち、将来の自分像を夢見るというのは、なんと楽しいことでしょうか。 大人から見れば、その夢が実現不可能に見えても、自由に思い描くことこそが、その子の生きる力になるのだろうと思います。 またその目標に向かって、自分なりに自分の身の回りのことを律することで、人間として成長していけるのだと思います。 私は夢のない子どもでした。 小学校の低学年までは
この夏は、自己分析がだいぶ進みました。 毒親の被害を認知する過程から一歩進んで、すでに接することも稀な親なのに、なぜ自分の心の中の大半を占めているのか、今の私の状況に照らし合わせて分析し、現在の生活でどのようなことを意識していけば良いのかを考えてみるところまで進んできました。 だいたいの因果関係が、自分の中で図式化できたように思います。 幼少期のことなど、いつまでも影響しているはずがない、考え過ぎだと思っていたこと自体が、問題に蓋をして、余計に問題行動をこじらせていたことに
話題となっている映画『マミー』を観ました。 1998年7月に起きた和歌山毒物カレー事件の真相を検証したドキュメンタリー。 この事件の犯人とされている林眞須美死刑囚が冤罪だと訴える家族の様子と、当時証拠とされたものを再検証する過程が描かれます。 これまで報道されてきたものから新しい情報は得られないのですが、これまで家族がどのように生きてきたのか、当時林家はどんな様子だったのかが、眞須美死刑囚の夫、健治氏と、長男の口から語られていきます。 その生々しさが映画ならではの視点で、大き
ガスライティングとは…… 「ガスライティング」とは、特定の個人または集団(ガスライターと呼ばれることもある)が誰かを心理的に操る目的で、その相手が自らの記憶の正確性や判断力に疑問を抱くよう意図的に仕向ける行為を指します。(indeed キャリアガイドより) これまで、自分に自信が持てなくなり、職場や所属する集団に居づらくなったのは、その集団にガスラィティングを行う人物が居たことが原因だと気づきました。 このような人物はどの集団にも必ず居て、私がターゲットでなくても、他の人が