【記録公開】熊本地震経験から災害対策・備えを振り返る
2024年は能登半島地震にはじまり、全国各地で起きている地震によって南海トラフ巨大地震の不安も募っている今日このごろ。Xで「地震の備えで何が必要で何が不要か、被災経験がある方の意見を知りたい」というポストがあり、熊本地震を経験している私の意見を投稿したところ反響があったので改めてここに2016年4月に発生した熊本地震の記録(Facebookに投稿していた記事)とともに、振り返ってみます。
災害は起きてほしくありませんが、少しでも皆さまの備えの参考になれば。そして今一度、自分自身の備えも見直そうと思います。
当時の家庭環境(ひとり親・賃貸暮らし)
私は3人の子どもを育てるひとり親。仕事はフリーランス。主に企業様のWebプロデューサーとして生計を立てていました。ひとり親になっても実家のある福岡へは帰らず、育児環境が整っていた熊本での賃貸暮らしを継続していました。震度7が2回おきた益城町から車で15分、距離7キロの町。
当時の家族構成
私:ひとり親歴9年、フリーランス歴9年(41歳)
長男:中学3年生(14歳)
長女:小学6年生(12歳)
次女:小学3年生(9歳)
賃貸アパートは木造2階建ての6世帯。1階の真ん中の部屋。間取りは3LDK。子どもたちが通った保育園の向かい。
2016年4月14日午後9時26分
前震発生(益城町で震度7)
子供部屋にある二段ベッドの上段に次女、下段に長女が寝ていた。私は隣の部屋、リビングのソファで塾に行っている受験生の長男の帰りを待ちながらうたた寝をしていた。ドン!という音がしたような気がして目が覚め、一瞬何が起きたかわからず外の様子を見に行った。アパートの住人たち(全てファミリー世帯)が全員外に出てきており「これは逃げなきゃいけないやつ」と思い、娘たちを起こしに戻る。
起きてすぐはわからなかったが、リビングにはお皿が散らばって割れている。他の部屋の確認はまだ。靴を取りに玄関に戻る。二段ベット下段の長女を「急いで逃げて!靴はいて!」と起こし、部屋で靴をはかせる。上段の次女を起こすも起きず、抱きかかえて長女の手を引き外へ。
このときハシゴで脛(すね)を打撲していたようだが気づかず、あとで痛みで大きな青あざに気づく。すでに慌てていたのかもしれない。
そのまま娘たちと車に乗り込みエンジンをかけるとアパート住民の1人が「どこに行くの!?危ないよ!」と引き止めようとするが「息子が塾に行っているから迎えに行く!」と車を走らせる。
『道路からは水が吹き出している。息子は無事だろうか。』
そう思った瞬間に呼吸がおかしくなった。過呼吸か喘息か、初めての経験で一瞬焦るがゆっくりと深呼吸をした。
塾に到着。呑気な様子で「おつかれ~」と出てくる息子。他の保護者も駆けつけていたが、子どもたちは何事もなかったように塾から出てきて全員安堵。塾では机にしがみつくほど揺れたが、ビルが頑丈な作りで2階だったこともあってかパニックなどにはなっていなかったそう。帰路につく。
「今晩は保育園のホール(小さな体育館)で皆んなで寝よう」と布団を持ち込み、私設避難所となった保育園のお世話になる。アパートの住民たちも皆んな一緒。
2016年4月15日 午前0時3分
余震(熊本市などで震度6強)
Facebookに自分の事業のスタッフに呼びかけた投稿などをして、その後は寝たような眠れていないような・・覚えていない。
その頃、震源地の益城町ではあちこちで火災が発生、住民は役場に避難していた。
2016年4月15日 日中
余震の中、自宅の被害状況確認と片付け
『とりあえず片付けをしよう』と自宅へ戻り、時々起きる余震のたびに外に出ながら片付。熊本地震では震度6以上が5回。震度7に比べると記憶にないくらい麻痺。震度7は別格。
動物園からライオンが逃げたというデマが流れたのは14日の夜。Twitterが発生源と記憶している。避難所で1人の子どもが「動物園からライオンが逃げたって!」と叫び、子どもたちは不安に。私たち大人は園庭に集まり「本当かな?」「まさか」「本当ならどうする?」と話す。今なら考えにくいが本気で「手なづける(ナウシカみたいに)」事も考えたり。とはいえ大人は迷わず「子どもたちを守るために武器をもって戦う」という選択肢を取る。私はいろいろな身の安全のことを考え、自宅にあった木刀を持っておくことにした。
無線LAN 00000JAPAN (ファイブゼロジャパン)解放される
東日本大震災の教訓から、釜石市とKDDIによる災害時のWi-Fiのあり方について具現化されたものがここで活躍。これはかなり有り難いものであった。これからもファイブゼロジャパンは活躍してくれるだろう。
助産師、整体師、セラピストなどの活躍
「避難所にいる母乳育児のママさん!おっぱいが止まりかけている方・張っている方はいませんか」
「マッサージが必要な方はいませんか」
「物資が必要な方はいませんか」
そんな様々な呼びかけがFacebook上で交わされ、人から人へ繋がりが生まれていた。こんなとき、SNSの中でもFacebookが盛んである理由はやはり友人・知人つながりだからだろう。とてもありがたい。
その他にも地場の不動産会社が空き部屋を開放したり、動物病院がペットと一緒に避難できることを呼びかけたり。地域の助け合いがどんどん生まれる。
益城町からも避難者到着
昼間のうちに、震源地である益城町から保育園の卒園者家族たちも避難してくることに。久しぶりの再会、こんな形ではあるけれど、親戚のように数年を共にした顔ぶれにお互い安心感が広がる。そして、益城町の惨状は私たちの地域よりも遥かに酷いものだったことを知る。益城町の人たち、特に男性は怪我をしながら閉じ込められた家屋から住民たちを救出しあい、避難してきた。新築の家も地面が隆起したり割れたりしてしまってはもはやどうすることも出来ない。ママ友はショック状態だった。
地域コミュニティ、つまりご近所付き合いが災害時に最も重要であることに気づく
学生さんなど県外から来て一人暮らしをしている人たちは避難する場所がわからず、コンビニの前などにしゃがみこんでいる子が多かった。声をかけられても安全な人かもわからず、相当不安だっただろうと思われる。都会ではめんどくさいと感じる田舎の人付き合いも、災害時には真っ先に駆けつけてくれ、地域を守ろうとしてくれるとても心強いものである。
私も近所付き合いしていなかったのに家族構成を把握されていて、町内会の理事が飛んできてくれた。男手がない家庭、高齢者のみの家庭などを優先的に回っていたことに気づく。
また、余震による疲労感は思っていた以上。
片付けも一旦落ち着き、念の為今夜も避難所で寝よう、と眠りにつく。
2016年4月16日 午前1時25分
本震発生(益城町で2度目の震度7)
下から突き上げられ、飛び起きた。轟音とともに大きな揺れ。床から吹き飛ばされる。布団なのか床なのか、とにかく飛ばされないよう這いつくばる以外に出来ることがない。動けない。立ち上がれない。揺れが激しく周囲が見えない。近くにいる子どもたちに覆いかぶさる。揺れが大きい!建物は崩れないのか!?
一斉に緊急地震速報が鳴り響く。数人が「わかってる!」と叫ぶ。直下型は速報よりも先に揺れる。すかさず時計を見る。20秒経過…40秒経過…おさまらない。逃げるべきか??近くに保育士がいる。「どうする!?避難する!?」「ホールは安全だと思う!このまま待とう。子どもたちの上に覆いかぶさっておこう」「わかった」
まだ揺れがおさまらない!?死ぬかもしれない!?
ホールの入口ドアが開いて誰かが叫びながら入ってきた。「危ないから避難して!ガスが大量に漏れてる!」
それと同時にガスの匂いがホール一体に充満する。保育士が叫ぶ「ドア閉めて!」
保育士に言う「避難しようか。火災になったら逃げられなくなるかもしれない」「園長に連絡します!」・・・「園長たちも小学校の校庭に避難するそうです、行きましょう!」「みんな!小学校に行くよ!頭上に気をつけて!少数のグループで行くよ!絶対に一人になるな!子どもは大人と行動!」
揺れが歩ける程度になり、一斉に移動する。
「車のエンジンをかけるな!」「タバコの火をつけるな!」色んな人が注意を呼びかけている。
電信柱の柱上変圧器が傾いているのに気づいた。あれが落ちてくれば大怪我か死ぬ。「電信柱の近くを歩かないで!」
小学校に着いた。福岡の家族がLINEで無事か心配しているので返信。しかしスマホの通知が多すぎる。あまり話したことがない県外の人も多い。近隣の人や家族との連絡を優先しなければ。
市民病院のほうが赤い灯りが燃えるように見える。火災?何かが起きている?見たことがない。熊本は壊滅したかもしれない。被害状況がわからない。14日の最初の揺れより遥かに大きく長かった。
電池が切れるからスマホは極力使いたくない。情報は落ち着いてから取ろう。
「もうダメだ、皆んな死ぬんだ・・・皆んなここで死ぬんだ・・・」近所のママ友がショック状態でつぶやいた。
ふと地面に手を置いてみた。
大蛇がたくさん這うような、ものすごい勢いで地面の中が流れている。
「地球は生きている」
なぜかその言葉が自然と出た。
少し明るくなってガスの匂いが落ち着いた頃、近隣住民は車を小学校の駐車場に移動させた。車中泊の準備だ。私も車を取りに行こう。
小学校運動場のトイレは断水している。汚物が溢れている。ここに用を足すのか・・家に帰りたい。でも揺れが怖い。今は家に入りたくない・・・。
皆んな呆然と運動場で夜を過ごした。
スマホを開いた。2ちゃんねるニュース速報+でヘッドラインが熊本地震のニュースだらけだった。現実感が湧いたのか、涙が溢れた。
2016年4月16日 午前10時ごろ
熊本県の被害状況が明らかに
車を運動場に並べた。車の後部座席をフラットにし、子どもたちは川の字になって寝ている。私は眠れず、カーナビのテレビをつけた。
益城町の住宅倒壊、阿蘇大橋の崩落、阿蘇の学生アパート倒壊・・・命を落とされた方々がいる。ショックだった。そして熊本城の崩壊映像が流れた。多くの人がこの映像で泣いていた。
▼当時の詳細映像はNHKにて
https://www.nhk.or.jp/kumamoto/lreport/article/000/73/
余震のたびに運動場の周囲のポールや背の高いものが倒れてこないかじっと見ていた。忘れていたけどこんなことを呟いていた。
昼ごろから部屋の片付けを再開。
息子は片付けのやる気をなくしてベッドで漫画を読んでいる。余震のたびに地鳴りがするのでいちいち外に逃げる私をあまり気にしていない。
「ちょっと、もう少し緊張感持ったら?」というと「地鳴りはしても揺れていないでしょ。電気の紐見てたらわかる」と冷静。なるほど。観察力に優れている息子のいうこと、一理ある。おかげで冷静さを取り戻した。
「片付けしないの?」
「また地震でぐちゃぐちゃになるかもしれないし、しない」
体力温存的にもそれが良いかもしれない。私も片付けはある程度で終えた。
余震が多すぎて船酔いのような気持ち悪さがこみあげる。
ヘルメットがあれば良かった。
避難所に戻り、停電のため各家庭が冷蔵庫や冷凍庫のものを持ち込んだ。炊き出しが始まる。風呂はドラム缶風呂を設置。アウトドアに慣れている保育園の色んな道具が大活躍。息子は薪割りを楽しみ、娘たちは赤ちゃんのお世話。大人たちは寝床を用意する人、料理をする人、掃除をする人、近隣コミュニティからの情報収集、支援物資があるところを確認するなど、色々やることは多い。しばらくは避難所で皆んなと生活することに決めた。
2日くらいは家庭の食材ストックで乗り切れそうだ。
近くに江津湖があり、湧き水があるので水を汲みに行った人が市役所の人がかけつけて「飲まないで!水質検査が終わってない!水質が変わっているかもしれないから飲まないで!」と呼びかけていると教えてくれた。
2016年4月17日
災害ボランティアは控えて、とメディアで発信されるが現場では
地震前の自分を褒めてやりたい。なんとなく財宝の水を飲んでみたくなり頼んでいたものが届いた。佐川さんはじめ宅配業者の皆さんは、地震前に注文されていたもののうち、水と食料を運んでいた。こんなときに仕事をしてくれる人がいることのありがたさ。近所の人達とわけあった。
また行政の支援がスムーズに到着できるよう、ボランディアは控えるようメディアが報じた。その一方で・・
ここからは支援物資も届き始め本格的な避難生活。避難所は行政も把握しきれない数が出来上がっている。Facebookでたくさん呼びかけ合いが起きていたが、それよりも地域コミュニティ間を走り回っている人たちによる「飛脚」のような人たちが活躍していた。
今まで経験したことがない出来事が起きはじめる。各避難所では自警団のようなものが出来上がっていた。私も木刀やナイフを身につけていた。子どもたちを守らねば。
現地は極限までピリピリしはじめた。
海上保安庁が熊本の3つの港に大型船が到着し、給水、入浴などの支援体制が出来上がった。あまり知られておらず最初は利用者が少なかったが、人伝いに広まる。「人伝いに」というのが現実だ。
「泣ける」「泣けない」は後々の心のケアに大きく影響した。泣けるときに泣こう。特に男性の一人暮らしに注意するよう産業カウンセラー協会から聞いた。人と関わりを持ち、泣くことが必要。男性だろうと女性だろうと皆んな泣いていいんだよ。皆んな泣いてたよ。
地震直後までカラス以外の生き物の気配がしなかったが、19日の朝、雀の鳴き声がした。ホッとした。カラスはいつもより低い位置(人間の頭の高さくらい)に陣取り始め、なかなかの迫力。
避難所生活、民間療法もあるといい
そんなに深い知識はないけど数年前からアロマテラピーを自分用に取り入れていたので避難所でも使えるかも、と持ち出した。愛用していたヤングリビング社から精油が寄付された。
特に小さいお子様がいるお母さんが「子どもが眠れない」「私も心身ともに疲れている」という相談が多かった。アロマケアをしながら小さい子には「怖かったけど、地球も生きてるんだね」と話しかけると、その日から眠れるようになったとのこと。「お母さん、地球も生きてるんだよ」とお子様が言っていた、と報告あり。
▼子どものストレスケアは災害時にこちらのサイトに特設ページが出来ます
セーブ・ザ・チルドレン
https://www.savechildren.or.jp/
ペパーミントは極度の緊張状態だと甘い香りに感じることを知った。香りの力は偉大であることを知った。
思えば地震発生から世の中がグレーに見えていた。瓦礫が多いから脳がそう感じたのか。近所の花が開いたとき、皆んな花を眺めに行った。花を眺めながら泣いていた。色が見え始めた(認識できた)のがこの頃から。何にせよ、自然の力に癒やされることを知る。
人間は生きることで精一杯の極限状態のとき、生きるために最低限必要な情報しか認識しないのかもしれない。
トラウマ
被災後は1年間子ども部屋の隣のリビングにあるソファで寝ていました。流石に疲れが取れずに自室で眠るようになったのは1年以上経ってからでした。
今でも飛行機、電車、車など揺れるもので眠ることが出来ません。(8時間以上の飛行機でも眠れない)
まとめ/その他の情報
以上、地震発生から4日間の状況でした。
まだまだ避難生活が本格化するのはこれから先の話ではありますが、必要なものはその都度調達できました。我が家の避難生活は10日ほど。
大きな地震の際には命以外に持ち出せるものはありません。
しかし、まずは3日間を生き抜く備えは必要です。その後、自宅にものを取りに帰れるか、帰れないかで状況は大きく変わると思います。
また、断水、停電、ガスの供給が止まるかどうかも大きいです。家族が一緒にいる時間帯なのかバラバラかどうかでも初動は変わります。
市販されている災害グッズの他に、赤ちゃんがいる人、ペットがいる人、高齢者がいる人、動けない人がいる人・・・など、各家庭に応じた備えをしてください。
被災後、最低限備えたもの
災害グッズ家族人数分(ヘルメット入り)
ペットボトル50本(水はあるほど良い)
十徳ナイフ
現金数万円(ATMが数日使えない)
ガソリンを空にしない(地震後は激混み)
町内会への活動参加
懐中電灯、ラジオ
家族バラバラの際の伝言メッセージ確認(我が家はau)
家族バラバラの際の集合場所
車高の高い車(SUV車だったから通れた箇所多数)
火災・水害以外では家にあるものは後で取り出せるので、命最優先の行動を取りましょう!
雨水をトイレ用水に使えるよう工夫
こういう工夫や知恵がとても大事な避難生活です。こういう事ができる人たちはアート思考です。美術・芸術系の人たちが得意としていました。
危険予知訓練
あらかじめ「危険予知訓練」を会社や家庭、学校でやる必要があると感じます。
▼中災防:危険予知訓練(KYT)
気象庁による地震の震源及び規模等
平成28年(2016年)熊本地震 ~The 2016 Kumamoto Earthquake~
また後日の様子は改めてまとめます。
避難生活ではメンタルケアが非常に重要となります。
最後まで読んでくださった方、読みづらい箇所も多々あったかと思いますがありがとうございました。
皆んなで助け合って、生きよう。