息をするように本を読む39 〜山川方夫「夏の葬列」〜
昔、教科書で読んで、頭にずっと残っている物語がいくつかある。
この小説「夏の葬列」はその1つで、中学何年生だったかはっきりとは覚えていないが、国語の教科書に載っていたごく短い掌編だった。
戦後から十数年が経った夏のある日。
主人公は20代後半から30過ぎくらいのサラリーマン。
彼は出張から帰る途中、この海沿いの小さな街に立ち寄った。
駅で買った煙草をふかしながら、ぶらぶらと街外れまで歩く。
街並みが途切れると、ずっと先まで芋畑が広がっていた。芋の葉が白い裏を見せて風にゆらゆらと揺れる。
芋畑の向こうから、黒い喪服を着た人々の細い葬列がやって来るのが見えた。
彼は息を飲んだ。
彼は終戦の年の夏、3ヶ月ほどこの街で過ごした。
都会から疎開してきていた彼は、1つか2つ歳上のヒロ子さんという少女と友達になった。
その日、芋畑で遊んでいた2人はあぜに並んで立ち、夏の日差しが照りつける草いきれの中、葬列が通るのを見ていた。
その日、あの事件が起きたのだ。
今また、葬列を眺めながら、彼はあの夏の日のことを昨日のように思い出していた。
その日に起こった事件は、忘れたふりをしていても彼の頭を離れたことはなく、ずっと彼を苦しめていた。
彼が今日、この街を訪れたのは、その記憶を自分の中から消し去るためだった。
何年も経ってすっかり変わった街を見たら、今更考えてもどうにもならない辛い過去を忘れてしまえるかもしれないと、彼は思った。
しかし、彼を待っていたのはより残酷な事実だった。
この小説は、反戦学習(今は平和学習、というのかな)の一環として、教科書に掲載されていたのだろうと思う。
戦争が、幼い少年の心にずっと消えない傷を残した。
私も当時は、そういうふうに受け止めた。そして、それも1つの事実には違いない。
しかし、大人になってから思い出すと、それだけではないと考えるようになった。
どんなに辛い過去があるとしても、無かったことには出来ない。今ではないにしても、ずっと心に抱いたままでも、いずれは向き合うしかないのだ。
それは忘れてはいけないとか、逆に忘れなくてはいけないとかと、そういうことではないと思う。
いつかは否応無く、受け止めることを覚悟するときがくる。
その後で、薄れていくものならば薄れていくのだろう。いや、薄れるというのは違う。別のものになる、ということか。
それまでは、非常に過酷なことだが、逃げることは、逃げ切ることはやはり出来ないのかもしれない。
今思うと、中学生の教科書に載せるにはあまりに重いテーマだ。
その年頃の子どもに、否が応でも向き合わねばならない過去など、そうそうあろうはずもなく、その重さを理解することは難しい。
大人になってから、折に触れて思い出し、やっと理解できた気がする。
きっと、それでいいのかもしれない。
本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
我が家の娘たちに、教科書で読んで強烈に印象に残っている物語は何か、と聞いてみた。
2人とも「ちいちゃんのかげおくり」だと言っていた。
あー。
なるほど。
***
山川方夫「夏の葬列」
と検索すると、青空文庫で全文が読めます。
今はこんなこともできるんですね。
興味がお有りの方はぜひ読んでみてください。