息をするように本を読む123〜メアリー・シェリー「フランケンシュタイン」〜
先日、某国営放送局のラジオでたまたま聴いた番組がとても面白かった。
大学の先生が自分の専門分野の話をひとつのテーマに沿って何週かに分けてわかりやすく講義してくれる。聴きながらメモを取ったりして、久しぶりに学生の気分に浸った。
聴き始めたときは、すでに今回のテーマの全13回のうちの5回目くらいだったのだけど、今はなんて便利な時代なのだろう、既に放送済みの番組を繰り返し聴けるサービスがあるのだ。それを使って初回から聴くことが出来た。
テーマは「ゴシック」。
ゴシックと聞くと、普通はノートルダム寺院とかケルン大聖堂とかのゴシック建築を思い浮かべるだろうか。
もしかすると、日本独自のサブカルチャー、ゴスロリ(ゴシック・ロリータ)とか、ゴシック・ロックとか、をイメージする方もおられるかもしれない。
この番組で話をされていた白鷗大学の唐戸准教授によると、ゴシックとは、非常にざっくりとした曖昧な言葉で明確な定義があるわけではないらしい。
簡単に言ってしまうと、元々、ゴシックは「ゴート(人)ふうの」という意味だそうだ。
ゴート人とは、質実剛健で武勇に優れた古代ゲルマン民族の一派のことで、6世紀から8世紀くらい、中世ヨーロッパと呼ばれる時代の中ほどまで、イタリアやイベリア半島に幾つかの王国を建てていた。
そんな経緯から、中世後半にこの地域に建てられた高くそびえる尖塔や大きなアーチが特徴の教会や聖堂の建築様式のことを「ゴシック(ゴートふう)建築」と呼ぶとか。
もっとも、こう呼んだのはずっと後のルネサンス全盛期の洗練された自由な(やりたい放題とも言う)気風を謳歌していた芸術家たちで、彼らは中世を人間性の「暗黒時代」と呼び、中世に完成された荘厳で少々威圧的なこの様式を時代遅れで粗野で野蛮なものと、下にみていた。
つまり、「ゴシック」は一時期、一種の蔑称だったのだ。
そのうち、「ゴシック」は廃墟とか死とか、古びた見捨てられたもの、のイメージを持たれるようになった。
その後の近代ヨーロッパにおける「ゴシック」の復権(ゴシック・リバイバル)の話がとても興味深く面白かったのだけど、それを書くと恐ろしく長くなってしまうので、非常に残念ながら(泣く泣く)割愛する。
とにかく、近代の18、19世紀に、ヨーロッパ、特にイギリスの富裕層や芸術家たちの間で空前のゴシック・ブームが起きた。
それは文学にも影響を与え、題材にいわゆるゴシック的なもの、不気味な怖いもの、人智を超えたモンスターや幽霊、超常現象などを取り上げた小説が人気を博するようになった。
言ってみれば、現代におけるオカルトブームのはしり、だろうか。
その系譜はずっと続いていて、たとえば、吸血鬼、狼男、ドッペルゲンガー、悪魔、などをテーマに取り上げた創作物は今もたくさんあり、独特の世界観が完成されている。
昨今の映画やゲームなどで流行りのゾンビ物もその影響を受けていると言っていいだろう。
前置きがとんでもなく長くなってしまったけれど。
放送の中で、唐戸准教授が19世紀初頭のゴシック小説の最高峰として挙げていた作品のひとつが、この「フランケンシュタイン」だった。
フランケンシュタイン、と聞いて、何それ、知らない、と言われる方は少ないのではないだろうか。
青白い顔に縫い目のような傷痕があり、無表情で、頭とか首とかにボルトのようなものが刺さって(?)いる、びっくりするほど大柄で怪力の怪物、の姿で表現されることが多いように思う。ハロウィンの仮装とかでもよく見るし、お化け屋敷にも登場する。
もっともこのテンプレートな姿は後世に作られた映画やマンガなどの影響で周知されたもので、原作では、確かに醜い外見ではあるのだけど、縫い目もないしボルトも刺さっていない。
そして、これもよく誤解されるが、この怪物の名前は「フランケンシュタイン」ではない。怪物には名前はなく、物語の中では「化け物」とか「怪物」とか「あれ」とか呼ばれている。
フランケンシュタインとはこの怪物を作った科学者の名前だ。
スイスの裕福な家庭の長男でドイツの大学の医学生、ビクター・フランケンシュタインという。
ビクターは、とても頭脳優秀な学生で、自然科学、ことに生命の謎に心を奪われていた。
彼は、日々研究を重ねるうち、人工物に生命を吹き込む禁断の方法を発見してしまう。
そして、この方法が果たして上手くいくのか、つまり人工生命体を作ることができるのかどうか、どうしても試してみたくなり、密かに準備して、ある日、実行に移してしまった。
実験は成功し、ビクターによって生命を吹き込まれた人造人間は目を開き、ゆっくりと動き出す。しかし、さもありなん、彼は怪物のその醜悪で恐ろしい外見に怯え、急に怖くなってその場を逃げ出してしまうのだ。
エンタメ的に見て、作中でこの怪物の誕生はとても重要なシーンだろう。
ビクターがいかにして、生命の入れ物、怪物の身体を作り、そして、どのようにしてその空っぽの物体に生命を吹き込んだか。
普通なら、その神をも恐れぬ禁断の実験の様子が読む人の心にまざまざと浮かぶほど、おどろおどろしく且つ詳細に描かれる、はずなのだけど。
しかし、残念ながら(?)この作品にはそういう場面はない。実にさっぱりあっさりと怪物は誕生し、そのあたりのことは、ビクターが聞き手に簡単に説明するだけにとどめられている。
考えてみると、現代のホラー映画やゲームにはそういう設定が過多なほど溢れている。
それらを見聞きする機会がいくらでもある私たちには、たとえば、マッドサイエンティストが不気味な薄暗い実験室で、恐ろしい怪物を創造している様をイメージするのはさほど難しくない。
だがしかし、今から200年も前の作家には、想像の閾値を超えていたのではないだろうか。
さらに驚くべきことに、著者メアリー・シェリー女史がこの作品を書いたときに彼女は弱冠20歳。いくら聡明で優れた文才を持つ作家だったとしても、この時代のうら若き女性にはこれが限界だったのかも、しれない。
最初の「フランケンシュタイン」の映画は90年ほど前に制作された。私は見たことがないので詳しくはわからないのだけれど、おそらく、恐ろしい怪物と人間が戦う、そんなエンタメ感たっぷりのホラーもの、らしい。
そしてそれが、多くの人の「フランケンシュタイン」へのイメージを作っていると、思われる。
だが、原作に於ける著者の意図は、どうもそうではないようだ。
少なくとも、単純な怪物対人間、では決してない。
シェリー女史がこの作品を著した頃のヨーロッパは、科学の発達、産業革命、技術革新によって、テクノロジー至上主義の時代だった。
そしてそれが絶頂期に達すると、よくある話だけれど、それに反発し内省する動きが出る。
科学技術の発達は、果たして人に本当に幸せをもたらすのか。
恐ろしいまでのテクノロジーの台頭が人を超越して、いつか人を支配し蹂躙するのではないか、芸術家や知識人たちの中ではそんなことを考える者たちも現れる。
作品の中の、神をも恐れぬビクターの所業とそこから生み出された怪物、そして、彼ら(?)ふたりの味わう苦悩と、その後に辿る悲惨な運命は、それを示唆しているように思われる。
現代でも、昨今のAIの発達と活躍を面白がり賞賛する中で、機械に仕事を奪われる危惧とかコンピュータに全てを管理され支配されることに対する不満や警戒とか、そんな空気が常に漂っている。シェリー女史の時代とよく似ているではないか。
何百年過ぎても、人間って本当に大して変わらないのだ、とちょっと笑ってしまう。
本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
物語の中の怪物は、誰もが何となくイメージする寡黙で無表情な怪物像とは違って、なかなかに雄弁だ。
創造主のビクターへの恨みと執着、自分を受け入れない人間への憎悪と捨てきれない憧憬、そして底知れぬ絶望を長々と熱く語る。
その言葉はどれも至極真っ当で、ビクターの自分勝手な弁解より、ずっと深く読む人の胸を打つ。
きっとシェリー女史には、怪物の言葉を通して言いたいことがたくさんあったのでは、と思ったりする。
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少々熱が入りすぎて、いつもよりだいぶ長くなってしまいました。お読みいただき、どうもありがとうございました。