息をするように本を読む69 〜中山七里「さよならドビュッシー」他5冊〜
この「さよならドビュッシー」は、中山七里さんのデビュー作。
たまたま読んだ雑誌の記事で、どなたかは忘れてしまったが、絶賛しておられた方がいて、それがきっかけで手にとった。
たちまち夢中になり、次々とシリーズ既刊を買い込んできては、あっという間に読んでしまった。
「さよならドビュッシー」
「おやすみラフマニノフ」
「いつまでもショパン」
「どこかでベートーヴェン」
「もういちどベートーヴェン」
「合唱 岬洋介の帰還」
文庫ではこの6作が出ている。最新刊の7巻目「おわかれはモーツァルト」も出ているのだが、例によって文庫化待ちである。(私はよほどのことがない限り、文庫しか買わないことにしている)
このシリーズの主人公は、岬洋介というピアニストだ。
でも、彼の視点では物語は進まない。
いつも誰か、違う人物の視点でストーリーは展開する。その人物がその巻の第2の主人公といっていいだろう。
その誰かは、ほとんどの場合、洋介と同じピアニストか、音楽を志す学生、または彼の(数少ない)友人だったりする。
物語のジャンルはいわゆるミステリーなので、冒頭で必ず事件が起きる。
岬洋介は探偵ではない。
事件を解決する義務はないし、洋介も別に解決したいとは思っていない。だがよくあることだが、それぞれの巻の第2の主人公、つまり語り手が事件に巻き込まれたり、あるいは当事者になってしまい、結局、洋介は毎度毎度、事件に関わることになる。
さっきも書いたが、洋介はピアニスト。それも生半可な弾き手ではない。
彼の弾くピアノは神々しくもあり妖艶でもあり、優しくも恐ろしくもある。
聞く人の心を揺さぶり、魔法をかける。
人を救うこともあるし、逆に人を追い詰めることもある。
芸術の神ミューズに愛された天才。
そして、彼に恩寵を授けた女神はひとりではなかった。
洋介は法と正義の女神、テミスにも愛されていた。
偏見も先入観も持たない、天性の洞察力や観察力、集中力によって、彼は事件の謎を解いていく。
こう書いていくと、何だか才能に恵まれた主人公が出来過ぎていて面白くない、と思われるだろうか。
だが、才能はときとして人を苦しめる。
溢れるほどの才能に恵まれた彼には、音楽家として致命的な瑕疵があった。彼の弾くピアノは、一度ならず地獄を見てきた者のピアノなのだ。
だから人の心をえぐり、本人たちも知らないその心の奥底を突くのかもしれない。
このシリーズの中では、彼や他のピアニストの演奏の描写が何度も出てくる。オーケストラによる演奏シーンもある。
人によっては冗漫だと思う方もおられるかもしれない。
私は楽器の演奏は出来ないし、音楽に詳しくない。正直に言ってしまえば、とんでもない音痴だ。
でも、音楽が嫌いなわけではない。鑑賞眼?耳?がないのだ。残念なことに。
そんな私でもこの物語の中では洋介の奏でるピアノを耳ではなく、文章で聞くことができる。
言葉の粒が音の粒、言葉の連なりがメロディーの連なりとなって、心に入ってくる。
文章の波が大きなうねりとなって迫ってきて、思わず息を詰めて聞いて(読んで)しまう。
これって、すごいことなんじゃないだろうか。
すごいのは音楽の描写だけではない。
中山さんの物語はこのシリーズに限らず、人の心の酷薄や怯懦や非道、その人間たちが作る社会の理不尽と不条理を容赦なくあぶり出す。
その描き方は、かっこつけた言い回しを駆使したぼんやりとした曖昧なやり方ではなく、ずばりと核心をつく。
うわっ、こう言っちゃうんだ、みたいな。
言い返すこともできず、ときにその強烈な言葉たちが胸に刺さる。
でも、岬洋介自身はこのどうしようもない世界を訳知り顔で批判することはない。人を責めることもない。
物語は彼の視点で語られていないため、彼の本当の思いは私たちにもわからない。
ただ、彼の奏でる音楽はこの哀しみと怒りに満ちた世界を包む。優しさと厳しさで。
洋介が解くのは事件の謎だけではない。
音楽には世界を変える力がある。などと甘いことを言うつもりはない。
でも、そう出来たらいい、と願うことは許されていいと思う。
本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
中山七里さんは一説によると、7人いるのではないかと言われているそうだ。
複数の連載を抱えているのに締め切りを落としたことはないし、シリーズ物がこの岬洋介シリーズの他にも幾つもある。
ものすごく多忙な作家さんなのだ。
中山一里、二里、三里と七里まで、7人おられるのではという話も、ちょっとうなずける気がする。
とにかく、これからも面白い作品をずっと読みたいので、お身体をお大事に、くれぐれもご自愛していただきたいと思っている。
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