息をするように本を読む74〜佐々木健一「辞書になった男・ケンボー先生と山田先生」〜
私にとって辞書は、言葉の意味を調べるだけでなく読むものでもある。
ある言葉を調べようと思って辞書を開くと、いつも必ず、その言葉からあっちの言葉へ、あっちからこっちへと目移りしてそのまま読み耽ってしまい、結局、何という言葉を調べるつもりだったか忘れてしまったりもする。
知らない言葉が目に入れば、へえ、なるほど、と思うし、知っている言葉でもその語釈(言葉の意味の説明文)や用例が、自分では思いつかないようなものだったりするのが面白い。
辞書を読むのが面白いと言うと、不思議そうな顔をされることが多い。
国語辞典は普通、「面白い」読み物とはならないらしい。
しかしここに、世間で「面白い」と評判になった(今も言われている)1冊の国語辞典がある。
三省堂から出ている小型国語辞典「新明解国語辞典」だ。
国語辞典が「面白い」と言われるとは、どういうことか。
辞書というのは、難解な言葉の意味を調べるもの。面白いことが書いてあるはずがない(私はそう思わないけど)と、一般には思われている。
「新明解国語辞典」が「面白い」辞典だと言われるようになったのは、その独特の語釈や用例が雑誌の特集等で話題になり、それをまとめた書籍も出たためだった。
特に評判になったいくつかを紹介しよう。
(私が持っている新明国は第6版なのでその語釈を引用する)
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世間知(せけんち)
大人として世の中をうまく渡っていく上での判断と身の処し方。
[正直ばかりでは通用しないとか、世の中には裏が有るとか、事を成功させるためには根回しや付け届けが必要であるとかの、学校では教えてくれない種類の処世術を指す]
読書(どくしょ)
[研究調査や受験勉強の時などと違って]
いっとき現実の世界を離れ、精神を未知の世界に遊ばせたり、人生感を確固不動のものたらしめたりするために、(時間の束縛を受けること無く)本を読むこと。
[寝転がって漫画本を見たり、電車の中で週刊誌を読んだりすることは、勝義の読書には含まれない]
世の中(よのなか)
社会人として生きる個個の人間が、だれしもそこから逃げることのできない宿命を負わされているこの世。一般に、そこには複雑な人間関係がもたらす矛盾とか政治・経済の動きによる変化とかが見られ、許容しうる面と怒り・失望を抱かせる面とが混在するととらえられる。
恋愛(れんあい)
特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。
(三省堂 新明解国語辞典第6版より)
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どうだろう。なかなかに攻めた語釈ではないか。しかもどれも長い。辞書の語釈というよりも、まるで随想か小説の一文のようなものもある。
ちなみに前述したように引用したのは6版だが、初版から3版くらいまではもっと突っ込んだ(?)記載もあったらしい。
出版当初からこの辞書の独特な語釈・用例はかなりの注目を集め、賞賛もあったが同じくらい批判もあった。現在の版では少し柔らかくなったとはいえ、未だこの方針は変わっていない。
「新明解国語辞典」の初版は1972年。
そのときから、そして今現在も「新明解国語辞典」は日本で最も売れている国語辞典であり、それは90年代に「面白い」辞書だと話題になるよりずっと前からのことである。
三省堂からはもう1冊「三省堂国語辞典」という中高生向けの国語辞典が出ていて、こちらも非常によく売れている。
この辞典の語釈はシンプルで短くあっさり、わかりやすさが身上で、その代わりに収録される言葉選びはあくまで現代語、時代を写し表す言葉、を基準としている。
そして逆に、言葉は移ろうものとしてその役目が終わったと判断されれば削除されることもある。
「三省堂国語辞典」の初版は1960年。
「新明解国語辞典」に先立つこと12年だ。
同じ出版社から出ている全くタイプの違うこの2冊の辞典は、実は1冊のある伝説の国語辞典から派生した。
その辞典は「明解国語辞典」と言う。
恐ろしく前置きが長くなってしまった。
この「辞書になった男〜」の著者、佐々木健一氏はテレビディレクター、ノンフィクションライターでもある。
2009年、著者は取材で三省堂の編集者に会う。そこで担当者に「三省堂国語辞典」の編纂者である見坊豪紀(けんぼうひでとし)氏の偉大さを熱弁されて興味を持つ。
その後、もう一つの三省堂のドル箱辞典「新明解国語辞典」の編纂者、山田忠雄氏の存在をも知る。
ちょうどその頃、三浦しをん氏の辞書編集者を主人公にした小説「舟を編む」が映画化されて話題になったこともあり、NHKでこの国民的辞典の著者である2人を取り上げた番組「ケンボー先生と山田先生〜辞書に人生を捧げた二人の男」の企画が持ち上がる。
そのための取材を続けるうち、佐々木健一氏の前にこの2つの辞書の母ともいうべき「明解国語辞典」が姿を現した。
「明解国語辞典」は戦時中(1918年)に出版された三省堂の最初の口語体語釈の辞典。
72000語を収し、時節にも関わらず外来語も多く掲載していた。「辞書はわかりやすく引きやすく現代的であるべき」という編集方針を掲げた画期的な辞書で、後世の日本の国語辞典の可能性を押し広げ発展させる起点ともなった。
そして、この辞典を作ったのが若き日の見坊豪紀氏と山田忠雄氏だった。
そう、この2人はかつて、共に生活の全てを注ぎ込み、力を合わせて1冊の辞書を作り上げた盟友であったのだ。
その2人が数十年後になぜ、全く路線の違う辞書を別々に作ることになり、その後一度も一緒に仕事をしていないのか。
2人はそれぞれにいくつかの著書や雑誌のインタビュー記事などを残してはいるが、辞書が2つに分かれた経緯について言及しているものは存在しない。そして、お互いがお互いについて記した手記も非常に僅少なのだ。
佐々木健一氏は、2人を知る友人や三省堂関係者、家族に取材して回り、2人が袂を分かった原因を探る。
やがて彼は、この謎を解く最大の鍵は2人が作ったそれぞれの辞書の語釈に隠されているのではないかと思い至るのだ。
この本は佐々木氏が番組取材を基に、辞書界に燦然と輝く二大巨星の軌跡、出逢いと訣別を辿ったノンフィクション。
そこには言葉と辞書を巡る人間のドラマがあった。
辞書は「公器」であると同時に「人」でもある。
「字引きは小説よりも奇なり」とは、前書きの一節である。
本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
新明解国語辞典の最後のページに必ず載っている「…んとす」という言葉の用例は、初版から現在まで変わっていない。
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んとす
われら一同、現代語辞典の規範たらんとする抱負を以て、本書を編したり。乞ふ読者、微衷を汲み取らんことを。
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これは新明解国語辞典初版の序文の中の一文。
辞書作りに関わる編集者たちの矜持が伝わってくる。
山田忠雄氏 1996没 享年79
新明解国語辞典 1972年 初版
2020年 第8版
見坊豪紀氏 1992没 享年77
三省堂国語辞典 1960年 初版
2021年 第8版
2人の名は今もなお、それぞれの辞典に「主幹」として掲げられている。
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