ハロー、 ”ENDING” 今までありがとう
「二度となにかができない」という事実は、人にとってものすごく重い。
二度と。
そんなに好きではない制服が、もう二度と着られない。
退屈な授業が、もう二度と受けられない。
大好きだった恋人と、もう二度と一緒にいられない。
距離感の掴めなかった親戚と、もう二度と話せない。
大切な家族と、もう二度と、会えない。
もし今夜眠ったら、もう二度と目が覚めないと知ったらどうだろう。
たとえ毎日に嫌気が差していたとしても、少しは明日が愛おしくなるんじゃないかな。
昔、私が何か悪いことをしてしまったとき、お母さんに
「もう二度とそういうことはやめて」
と怒られたことがある。
その場面が、音声付きで脳裏から離れない。
たぶん「二度と」という言葉の重みが、すごくのしかかってきた瞬間だったんだと思う。
「今日」だって、終わってしまえばもう二度と来ない。
「明日」だって同じだ。
「今日」になって、終わってしまったならば、もう二度と取り返すことができない。
でもなんだか、ずっと「明日」というものが嫌いだった。
「明日なんてくるな」と願って、失ってしまった「昨日」に恋焦がれて、そうやって過ごしていた時期があった。
そんな時に出会った『死の魔法』という曲。
どうしてだろう。
どうしてこんなに「今」が嫌いなんだろう。
「あの時は良かったな」とか「あの頃に戻りたい」って思ったり、
「早く自立してこんな生活を送りたい」とか「おばあちゃんになったら何をしよう」って考えたり。
過去も未来も、愛しているというのに。
かつて「今」だった過去も、これから「今」になる未来も好きなのに。
どうして「今」だけは、愛することができないんだろうか。
要らない、早く終われ、なんて思ってしまうのだろうか。
「今」だって、失ってしまったらもう二度と取り返すことができないのに、それでも私が「今」が嫌いだった。
だった、と言うより現在進行形であんまり好きではないかもしれない。
いつか「今」を振り返った時に、もう取り返せないことを悔やむことはわかっているのに。
やっぱり人は失ってからじゃないと、その価値を理解できないのだろうか。
「二度と」手に入らないものこそ、愛おしく感じるのだろうか。
『死の魔法』はこう締め括られる。
「今」を擬人化して“HELLO“と呼びかける。
そうして「今」=「僕」だと言う。
私はいつも「過去」や「未来」ばかりに目を向けて、これまでの自分やこれからの自分のことばかり見てしまう。
だが、「今」の自分も「自分」である。
難しいことは考えずに過ごしていた保育園・小学校時代の自分。
悩みつつも大学受験合格という大きな目標に向かって行った中高の自分。
そして、
30歳を迎える自分。
還暦を迎える自分。
人生の中で出会ういろんな「自分」。
そして忘れられがちだけど、確かに存在しているもう1つの自分である「今の自分」。
その「今」を生きている自分の存在に気づいて『死の魔法』はアウトロに入る。
過去や未来を愛するように、「今」も愛せたらいいのだけど。
実際なかなか難しい。
過去は美化されるものだし、未来には色んな可能性が広がっている。
だけど「今」は、いろんな問題と向き合いながら未来へと進んでいかなくちゃいけない。
そしてそれは、そんなに簡単なことではない。
だけど考えようによってはもったいない。
「今」は、いずれ振り返って愛おしむ「過去」になる。
それならもっと楽しんだ方がいいよなとも思う。
「二度と」来ない「今」を愛して、日々を過ごせたら、そんなに素晴らしいことはないのに。
そのはずなのに。
人生の終わりを迎えるとき、私はこんなふうに言えるだろうか。
「死」に対して、”HELLO"なんて挨拶をして、「今までありがとう」って言えるだろうか。
「今」と向き合って、「今」を愛して、
そうやって日々を積み重ねていけば、最後には「ありがとう」と言えるのかな。
「今」を愛して行きたいね。
「今」を愛して生きたい。
「二度と」はない「今」を。
おわり
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