やっとあの奈良の伝説と出会う
奈良青春小説
鹿男に次ぐ鹿小説
時代パラレル小説
佐伯さん恋慕小説
実虚溶解小説
タイムカプセル小説
奈良で満月が見たくなる小説
前野ひろみち氏の『満月と近鉄』は、奈良を舞台に描かれる短編集で、2016年の『ランボー怒りの改新』が改題された文庫版として2020年に発行された。単行本発売時にも文庫版発売時にもその情報を目にし、心の底から気になっていたにもかかわらずなぜか今の今まで読まなかった。読み終えた今、なぜもっと早く読まなかったと後悔するほどに、天地がひっくり返るような衝撃とともに作品世界に飲み込まれている。おまけのような存在であるはずの解説や巻末の対談さえも、最後の一文まで濃密に世界観の構築を手伝っているかのようで目が離せない。
この作品を一言で説明しようとするなら、冒頭のような言葉が思いつく。しかし、どうやっても一言で説明できるはずもなく、今私の中にある作品の余韻とのギャップが大きくなるばかりだ。とりあえず、短編集ではあるので一編ごとに簡単に説明する。
「佐伯さんと男子たち1993」は、近鉄奈良駅近くの中高一貫校に通う中学3年生のアホな男子たちの話である。田舎の呑気な中3男子らしい幼さのある筆致で、佐伯さんと鹿との日々が描かれる。思春期らしい初心な恋慕の表現が秀逸だと思った。彼らのアホ具合がなんか愛しくなる1編だ。
「ランボー怒りの改新」はその名の通りランボーが怒っている。大化の改新とベトナム戦争という、重なりようのない2つの時間軸が平然と合体しており、こちらの驚きを無視して当たり前のように物語が進んでいく。なぜ成立しているのか不思議でならないシュールな作品で、ふざけているのか真面目なのか分からないが、そんなところがまるっと好きになってしまうくらいただただ面白かった。
「ナラビアン・ナイト 奈良漬け商人と鬼との物語」は、千一夜物語をどんなふうにでもアレンジして語ることができる女性が、奈良風に千一夜物語を語るという設定で展開される。間違いなく現代奈良の物語でありながら、いつの時代のどこの国の話だっけと思ってしまうほど、出てくる語彙の領域がばらけすぎていて、なおかつアラビアン・ナイトそのものであった。このすごく不思議でありながら、収まりがよくてすっきりする話だった。
「満月と近鉄」は前の3編とは趣が異なる。これも奈良の物語ではあるが、作者の前野氏が主人公として描かれる。今度は18歳なりの瑞々しいアホが描かれ、作中にも出てくる聊斎志異のごとく主人公は化かされているのだろうかどうだろうか、と考えているうちに読者であるこちらが化かされている。鮮やかに手のひらを返しながらぐんぐん遠くに連れて行く引力に戸惑い、呆然とした。
巻末には仁木英之氏の解説と、文庫化での追加分として森見登美彦氏との対談が載っている。ここまで最後の最後まで読者を煙に巻こうとしているかのような作品には初めて出会ったので衝撃を受けた。解説には作中に出てくる人物が登場し、もしや解説ではなくこれも物語なのだろうかと思い、でも同時に実在の人物も出てくるので、「満月と近鉄」で虚構と現実の境目をうやむやにされた困惑がさらに深まる。対談では前野氏の人間性が垣間見えるせいで、なんとも掴みづらい雲のような前野氏の実体が見えるのではないかと錯覚し、でもやはり見えないのでおいていかれる感覚になるのだった。もしこの解説と対談の内容が本当なら、この作品が世に出るまでの過程が一つの歴史であり、物語である。とにかく不思議で多幸感のある読書体験だった。