「秘すれば花」について(当麻/小林秀雄)
美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。
――本文より引用
美しい花がある。美しい人がいる。けれど、それを語ることはできない。ある人は、その造形を語る。ある人は、その身に宿す魂を語る。けれど、そういうことではないのだ。どれを語られたところで、違和感を覚える。誤ってはいないし、おそらく共感もする。でも、何から何まで同意できない、といえばいいのか。
ぼくにも、美しいと思う人がいる。容姿が美しい。信念が美しい。その他、三日三晩でも語りつくせないほど。けれど、語るだけ語ったところで、ぼくはその人の美しさを語ったことになるだろうか? その美しさは、ことばで共有できるものなのだろうか? ぼくの目に見えた美しさと、語り明かした相手に見える美しさは、異なっているんじゃないか?
要するに、皆あの美しい人形の周りをうろつく事が出来ただけなのだ。あの慎重に工夫された仮面の内側に這入り込む事は出来なかったのだ。
――本文より引用
『当麻』とは、ある能の曲である。作者を戸惑わせた、美しさについて記されたものでもある。
なるほど。あの美しい人の周りを、ぼくもまたうろついているだけにすぎないのか。「皆」。ぼくの他にも、あの人を美しいと思う人がいる。でも、ぼくの「美しい」と他人の「美しい」は、決して重なることはない。
「仮面の内側に這入り込む事」が出来れば、あるいは。けれど、誰がそれを望んでいる? 人の数だけ、美しさがある。共通した美しさというものはない。「仮面の内側」にあったとして、それは本当に美しさなんだろうか? 「這入り込む事」が叶ってしまえば、途端に美しさは消え失せるんじゃないか?
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず
――世阿弥『風姿花伝』より引用
つまるところ、秘められているから、美しさがあるのだ。誰の目にも明らかなど、ありえない。だからこそ、美しさは成立する。見る目の数だけ。そして、美しさとはよりわからなくなり、目にする者を戸惑わせ、魅了する。
美しい花がある。美しい人がいる。けれど、それを語ることはできない。秘めるから存在する美しさを愛でる思いも、秘めることでまた輝く。そういうものだと思う。
当麻(『モオツァルト・無常という事』収録) - 小林秀雄(1961年)
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