青春の始末(恐るべき子供たち/ジャン・コクトー)
せいしゅん【青春】
若い時代。人生の春にたとえられる時期。希望をもち、理想にあこがれ、異性を求めはじめる時期。
――Oxford Languagesより引用
『恐るべき子供たち』は、冬に始まり冬に終わる。そのためか、「春にコレをした」「夏にアレをした」と話題に上がっても、印象に薄く、どうでもいいことのように思える。
題に『子供たち』とあるので、登場人物の大半は『子供たち』であり、年のころも『青春』の只中にある。『青春』の定義は数あれど、春の空気の生ぬるさにうわついたり、夏の暑苦しさに気怠くなったりするのは共通している(と思う)。
けれど、『子供たち』にそんなものはふさわしくない。彼らに必要なのは、凍えるような寒さの中、体の奥からじりじりとせり上がってくる熱だ。その熱を動力に、『子供たち』は『青春』を彷徨する。舞台が冬でなければ、この物語は成立しない。
『青春』はいずれ幕を閉じるものだ。(何歳で閉じるのかは、人によって差があるが。)『恐るべき子供たち』も例外ではない。しかし、彼らは誰もがそうであるように、時の流れによって自然とその時期を終えたのではない。『子供たち』は自分達以外の手によって(それが自然によるものでも)『青春』が閉ざされることを良しとしなかった。すなわち、自らの『青春』を自らの手で始末を付けたのだ。
『子供たち』の『青春』には、誰一人入ることは許されなかった。むかしむかし、『青春』を作り上げた『子供たち』は二人だった。その後、さらに二人が加わり、四人になった。『青春』は、四人で完結してもおかしくなかった。
けれど、『子供たち』の『青春』は非常に厳粛だった。破壊が可能なのは、創造主だけ。彼らは、終始とり憑かれていた熱に振り回されることで(振り回されるのを良しとして)『青春』を葬ったのだ。
『子供たち』には希望があった。理想があった。異性を求めた。しかし最も大切だったのは、それらを抱えることそのものだった。『青春』を手離すことは、彼らの頭にはなかった。だからこそ、ふとしたことで壊れかけたときは、必死に食い止めた。それで、互いが傷付いたとしても。
『恐るべき子供たち』を恐れているのは、大人たちだ。子供のまま人生を、『青春』を完結させた彼らに、畏敬の念を抱いている。
恐るべき子供たち - ジャン・コクトー(翻訳:中条省平、中条志穂)(2007年)