どもる、ともる(螢/村上春樹)
あれは、大学に入学したばかりの頃。
僕は、とても美しい人に恋をした。
何かの講義を初めて受講したとき、
その人は、僕の隣の隣の隣の席くらいにいた。
たまたま、視界の端に入っただけだった。
それだけだったのに。
僕は、そちらの方をふり返っていた。
本当に、美しい人だった。
髪の毛は、肩を少し通り過ぎるくらいの長さで、
いくつかの房が、前の方にすべり落ちていた。
僕は、さっそくできた友人と会話に興じながらも、
目だけはずっと、彼女に見惚れていた。
彼女とは同じ学科だったので、一応共通点はあった。
ある日、僕は思いきって彼女に話しかけてみた。
それで、僕たちは知人になった。
悪いことをしているな、と思った。
僕には、当時すでに付き合っている人がいたから。
もしかしたら、それは恋と呼べるものじゃなかったかもしれない。
ただ、彼女という美しい存在に魅せられていたのかもしれない。
僕は、彼女とどうかなりたいわけじゃなかった。
むしろ、どうもなりたくなかった。
僕が、彼女の都合でふり回されることも、
彼女が、僕の都合でふり回されることも、
僕はそのどちらも、したくなかった。
今思えば、僕は彼女をかなり神格化させていたのかもしれない。
僕と彼女は、その後どうなったわけでもない。
でも一度だけ、彼女と出かけたことがある。
美術館の何かの企画展に、一度だけ。
僕は、また悪いことをしているなと思った。
僕は、少し浮かれていたんだと思う。
誘ったのは僕の方で、その企画展に興味があるのも僕の方で、
僕は、それらを鑑賞することに、少々夢中になりすぎた。
そのせいで、
彼女が先に会場を出てしまったことに気付かなかった。
追いかけるように会場を出た後、僕は彼女に謝った。
彼女は、全て見終わったから出ただけだと、どこ吹く風だった。
多分、彼女は本当に気にしていなかったんだと思う。
気にしているのは、僕の方だった。
それが直接の原因というわけじゃないけど、
それから、彼女とは徐々に疎遠になっていった。
そうして、彼女のことは何年も忘れていた。
「螢」を読み返すまでは。
もう何度も読み返している話ではあるんだけど。
どうしてだろう。
「螢」に登場する「彼女」に、彼女が重なった。
彼女の方は強かで、「彼女」の方は危うくて、
似ているところは全く無いんだけど。
ああ、そうか。
僕が好きだったのは彼女自身じゃなくて、
彼女っていう「美しさ」だったんだ。
悪いことをしたんだな、と思った。
彼女と知り合ったときから、
僕は、その恋を少しずつ失っていたんだ。
ただそこにあるだけでよかったんだな、と思う。
手の届かない場所でも、そこにあっただけで。
僕は。
螢(「螢・納屋を焼く・その他の短編」収録)/村上春樹