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文章を書くのが嫌いな私がnoteを続ける理由

✴︎文章を書くのが嫌いだった

昔から文章を書くのが苦手だった。そして嫌いだった。読書感想文も国語のテストも何もかも活字恐怖症だった。くもんも国語だけ早々にやめた。

大学生になって始めて書くことになった実験レポート。書き方がわからなくて、提出日の朝4時まで放置していた。提出期限は朝8時45分。今思えば、入学早々に必修を落とす危機だった。何を書けばいいのかわからなかったのだ。振り返ると、実験レポートは形式があるものだった。何回か書いているうちに体裁の整え方や、書き方がわかってきた。それでも、レポートを書くこと自体は好きになれなかった。写経のような、作業の延長だったから。

当然、noteはレポートとは違う。形式もなければ、何を書いてもいい(倫理的にNGでなければ)。
とにかく自由だ。レポートや小論文、メール、そういう作業とはかけ離れた世界。

それなのに、全く自由を謳歌できない自分がいた。少しだけ作業をしている感覚になる。文章を整える時とか、何回も見直すときとか。読んでもらいたい気持ちが私をそうさせる。私の記事を読んでくれている人がいるのかな。どうなんだろう…反応がないと不安になる。

しかし、そもそも私も見る専だったわけで、コメントがないことを嘆いても仕方がない。

ただ、noteを書いていると、記事にコメントが付くことがある。嬉しい。これはnoteを書き始めて分かったこと。

あ〜、昔の自分を殴りたい。もっと、コメントを書いてあげて!

もはや深夜テンション。

いずれにしても固定の読者がいない原因は私にある。私はnoteの向こうにいる人を全く意識せずに文章を書いていたのだ。

今までは自分が疑問に思ったことを単にまとめているだけに過ぎなかった。あくまでも情報の整理。情報をまとめる時はどうしても客観的になってしまう。そのため、感情が入らない。感情のない文章は面白みがない。

しかも、自分が一番苦手な文章という形で。それは文章を書くのが嫌いにもなるだろう。本当は絵とか陶芸とかそういうので表現したい。じゃあなぜnoteをやってるんだ、という疑問。

私は文章で何かを表現するのが嫌いだ。それは今も変わらない。だから、私の中で書く行為はかなり負担をを強いられる。

私は文章にすると論理やら、文体やら、構成やら、あとは文章そのものの解像度(具体的な描写)そういうものが事細かに気になってしまう。

しかし、noteを始めて見て思ったことがある。自分が書いた文章を、一番読むのは誰か?

noteを書いたことがある人ならわかると思う。

そう、自分だ(自分が読みたい文章を書けばいい。そういえば、こんなタイトルの本があった気がする)。

あった。話が脱線した。すまない。

閑話休題。

とはいえ、いまだに自分が何を読みたいかわからない。わからないなりに、とりあえず文章を書くのが嫌いだという文章を書いている(進次郎構文みたい)。今回は、自分の気持ちをただ書き連ねる日記と言ってもいい。

結局、noteを続けて何がしたいのか。目標が曖昧なのがよくないのだろう。ただ、書いているうちにこうやって何かに気づけるのもnoteの魅力だ。書くことは苦手だが、書くことによって見えてくる気づきもある。

✴︎やりたいことリスト

◆読書会

→その月に読んだ本について語りたい。できれば同じ本が良い。もしくは過去に読んだことのある作品。私は話を聞くより自分も話したいのだ。自分だけ楽しくてもあれなので、同じく話したい人、あるいは聞きたい人も歓迎したい。
→『ファスト&スロー』みたいな本。ちゃんと読めていないちょっと真面目系な本。こういうのも好き。同じ本を各自15分〜20分読んで、互いに説明する会とかやりたい。私は全部読むのがめんどくさいと感じる人間なのだ。あと人が聞いてくれるとモチベが上がる。文系ゼミの輪読会に近いイメージ。

(追記)◆本の紹介は好き

読み直すうちに、そういえば本の紹介に関しては好きだなと思い返しておりました。これからも続けていきたいと思います。

✴︎気づき

これまでは書きたいことを書いているわけでも、読みたいことを書いているわけでもなかった。これが原因で書くのが面白いとは思えていなかった。まずは自分が楽しむこと。自分が読みたいと思う文章を書くこと。あと、ちゃんとnoteを書くなら読んでくれる人のことを思って書くのも忘れない。win-winな関係を目指す。

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