母娘、愛とエゴ
わたしの母は、娘の母親にありがちな心配性&過干渉なタイプで、こまったことに子どものことを否定したり、変えることのできない外見や内面的な特徴をいともたやすくジャッジし、思った瞬間、相手に伝えてしまう人だった。わたしはそんな言葉におびえ、傷き、心の中で泣いて、外面では強がっていった。そんなふうに育ち、誰よりも強がり誰よりも怯えた大人になった。大人になってもそこから抜けだせなかったわたしは、母からの干渉に拒否の姿勢を見せつつも、実際には深いところに受け止めてしまっていた。
全てをさらけだそうとするなら、母から受けとったショッキングな言動をより詳しく書くことになるが、具体的に書かないのは、それは「過去」の幾分ネガティブな話だから。今ではそんなことはもう流している。ならば、「あかるい未来」を嬉々として迎えるために、詳細には触れず、なんとなくはわかる感じにしておこう。
母親の呪縛
わたしは子供のころから母の呪縛にとりつかれていた。母はわたしのことを彼女目線で決めつけたり否定したりしながら、彼女の思うような未来に歩かせようとコントロールしようとしていたことに気付いたのが30 代半ばにさしかかってからのことだった。
30 代半ば、毎日朝から晩まで否定の声が聞こえ、わたしには何の価値もない、朝も起きれない、仕事もできない、生きてる意味がない、すべての語尾が「・・・ない」と眠り中の夢さえも真っ暗だった。もう誰にもたよれない、お金もない、苦しくて何もたのしくないと人生を否定した。これはその後、当時母親がわたしに投げかけていた言葉がそのまま染み入っていただけだったことに気付く。
そんな自分に、近くにいた友人がゲシュタルトセラピーという心理療法をやってくれた。
1.それは体の感覚を感じ(=感情解放)、
2.感じたことを表現し(=言語化)、
3.問題になっている相手と対話し、
→これは正確には「空イス」といって“仮にその人がそこに座ってるとしたらどうこたえるか”という問いを立てて、想像し、それは本当かを見ること。仮にいるとした場合のその人と対話をしていく。実際に本人と対話することではない。
4.それを踏まえて、今どう感じるかを言葉にするというものだった。
自分に気づく日々
その時は、深く深くじぶんの過去の体験にさかのぼり、かたくなに親に頼れない、愛されていないから頼ってはいけないんだっていう思い込みと、本当は大切にされたいという気持ちが入り交ざっていて号泣した。それを目の前の人間関係に投影していたことがわかった。
目の前にあった現実は、すべて自分の自己否定感が作り出していて、母親から大切にしてもらえない、否定されてると思ってきた歴史があることがわかった。
このゲシュタルトセラピーという心理療法は、通常カウンセラーと呼ばれる人にやってもらうものだが、友人に何回かやってもらった後、わたしは、自分で自分の感情を解放して、同じやり方でノートに書きながら自分ではじめた。とにかく涙がとまらなかった。
カウンセラーに頼らず、自分なりに内観のやり方を試したり、本やブログを参考に心理ワークなどをやって過ごした。お金はなかったが、自分の時間は確保することができたから、内観に熱中していった。やればやるほどに、自分で抑えつけて押し込めていた感情に気づき、自分の決めつけに気づく、その時間が好きになっていった。感情がときはなたれ、癒されて、楽になり、新たな視点をもつことのよろこびは大きかった。
そうして、自分がすこしずつすこしずつ変わっていくのを感じるのはうれしかった。自分の中の決めつけが、ゆるまっていった。
相当の悲しみや怒りをぶちまけながら内観ワークを続けていたが、涙がとまることはなかった。
内観のワークが進めば進むほど、いろんなことがわかった。
⑴相手には相手の事情があることも理解し、母への感謝の気持ちがあることも気づき、
⑵とてつもない深い愛情を母に抱いていることにも気づき、
⑶母にも深い愛情があり、自分に向けられていることも感じ、
⑷母自身も子どものころに尊重されなかったという傷があることも知り、
⑸わたしには大切にされていなかったという思い込みがあり、
⑹本当は大切にされていたこともあったことにも気づいた。
昔は恐ろしくてふるえ上がっって何も言えなくなっていた私も、今でも人対人として傷つくような言動をする母に「それは~な感じがして、そんなことを言われたらわたしはおそろしくがたがたふるえるよ」と感情を伝えて表現することができるようになった。
かれこれ7~8年はかかって、沢山のおもいこみから解放されたにもかかわらず、それでも、過去のことを思い出すと涙がとまらかった。
「これだけ涙を流してきてもまだ泣けるって、相当だけど。にしてもひどいわ。いったいこれは何?!」と今一度内観を深めてみる。過去にもどっていく。じっくり眺めて、感じていく。ひとしきり味わい泣ききったところで。
あらたな発見
わたしの中から、こんな思い込みが発見された↓
「母というものは子供をたいせつに扱い、子供のありのままを尊重する存在である。」「母親はこどもに対してしかるべき愛情表現をするものである」
という幻想ともいうべき理想論。これには目からウロコが落ちた。
そもそも母親が子供を愛するかどうかはわからない。産んでみなければわからないのだ。出たとこ勝負で、実際にはこどもを愛せないと訴える母親もいるし、育児放棄は人間だけではなく、動物の世界でも起こっている。そういう意味でも愛されて育ててもらえるように小さくて可愛い体で生まれてくるように思う。
一方、子供は最初から母親を愛している。どうやら子供は母親を選んで生まれてくるらしい。これには多くの証言がある。少し調べれば、本や映画でその数々の証言を知ることができる。わたしの友人のこどもが語ったと言っている。その女性を好きだなと思ってその子供になろうとおもって生まれてきたと。母親が性格が悪かろうが、不細工だろうが、お金がなかろうがなんだろうが、無条件に絶対の信頼と愛を携えて、全てを差し出す形で生まれてくる。それが子供だ。それが証拠に、小学生までの児童が親に暴力をふるったり、親を殺したという話をほとんど聞いたことがない。もちろん、探したらどこかにはあるかもしれないが。
一方、その逆は当たり前にある。今や児童虐待は年間20 万件におよぶ勢いで、その結果、毎年数十人の子供が亡くなっている。
母親はいろいろだ。子供のありのまま、そのままを尊重して育てたいと思う人もいれば、子供を育てるというより逆に学ぶことがたくさんあるといって子供の話を聞いて学ぼうとする親もいれば、親の欠乏感を埋めるために利用したり、自分の承認欲求を子供で満たそうとしたり、ほうっておけば勝手に育つと思っている人もいれば、子供は何もわかっていないからわかっている親が教育し、しつけるものだと子供の教育者としての立場を取る人もいる。
その愛情表現も千差万別である。子供に手を挙げることだってその表現になりうる。愛があるのはある。ただ、こどもが持っている純粋な愛とは少しちがう。責任や義務が伴い、そこへ親独自のエゴが絡まってくるから、純度の高いものにはなりえない。
そんなエゴにまみれた母親の愛情表現を、子供が生まれるときに携えてきた純粋な愛のフィルターをとおして眺めると、どこにも愛らしきものが見当たらなくてとまどうのはあたりまえである。
そんな気づきがあって、母親とは子どもが期待した形で愛を表現してくれるものではないということを世界の常識のように理解するに至った。期待したものとはまるで正反対の表現をたくさん投げかけられることがあったとしても決して悲しむべきことではないということがわかったのだ。
もやもやがすっきりしたら、母と子の愛についてもっと書きたくなってきた。
なわけで、つづく・・・🥰
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