伝えたい言葉は、伝わる人に届けばいい。
自分が伝えたいことを発信しようとしたとき、思いを綴っては、
「でも、こういう人にとっては、わたしの言葉は意味のないものになってしまうかもしれない…」
「こういう人には、わたしの言葉が逆の意味で捉えられてしまうかもしれない…」
「こういう人にとっては、この言葉は不快に感じられるかも…」
「こういう人には当てはまらないかも…」
「こういう人を傷つけてしまうかも…」
「こういう人には否定されるかも…」
なんてぐるぐる考えて、結局口を噤む・・・みたいなことが多くありました。
そして、わたしに伝えられることは何もないんだな、という結論に達し、動けなくなるっていう。
でも、これって違ったんだよねぇ。
わたしは、わたしの言葉が届く人(届けたい人)に向けて、伝えたいことを伝えればいいだけだった。
どうしたって、わたしというフィルターを通して紡がれる言葉が、届かない人や響かない人はいる。
(可能な限りの配慮はするけれど)不快に感じる人もいるかもしれないし、腹を立てる人もいるかもしれない。
でもそれは、その人に言葉を届けるのは、わたしの役目ではなかったというだけの話で。
その人には、その人に合った(わたしではない誰かの)言葉があるってことなんだ。
これって、本とかも一緒だよね。
内容や結論としては同じことだったとしても、「誰が」「どういう視点で」「どんな題材で」「どんな口調で」書いているかで、響く相手が全く違ってくる。
ある人にとっては人生を変えるほどの影響を与えた本だとしても、別の誰かにとっては何も受け取るものがない場合もある。
それは、その人のフィルターに合致していないのかもしれないし、今はそれを受けとるタイミングじゃないのかもしれない。
どちらにせよ、ひとりひとり、その時々で、必要としている本や、合う本は異なるんだ。
どんな名著でも、“全ての人に”受け入れられるわけではないように、どんな言葉を紡いでも、“全ての人に”受け入れられることはないんだよね。
というか、わたし自身も、過去に読んだときには「……はぁ……」とあまり響かなかった本が、数年後に読み返したとき「これ、わたしのこと?!」と思うくらい腑に落ちてバイブルになったことが普通にありました😂
同じ人間ですら、受け取るタイミングが違うだけで、「同じメッセージ」に対して感じることがこんなに変わるのだから、もう、そういうことなのです(笑)。
こういう認識でいたら、もし自分の言葉が誰かに否定されたとしても、「わたしの言葉を届ける相手ではなかったんだな」と思うだけ。
「わたし自身が否定された」と傷つく必要もない。
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全員に認めてもらうことはできないし、誰からも否定されない表現はない。
だけど確実に、あなたという唯一無二の視点からしか、伝えられないことがある。
あなただからこそ、伝えられることがある。
だから、怖がらずに伝えたい言葉を紡ごう。
あなたが届けるべき人に、届くように。