うつの要因を探る内省文① 〜職場環境編〜
皆さんこんにちは。
今日は以前からお伝えしていたうつの要因を探る内省文を分割して公開したいと思います。
今回は職場環境編その1です。
何故私がうつになったかという振り返りのお話なので、ネガティブな表現が含まれているかもしれません。
それでも大丈夫という方はお進みいただけると嬉しいです。
現在うつ病やメンタル疾患で悩まれている方のお役に少しでも立てられたら幸いです。
◇◇
2014年2月、私は地方にあるゲーム会社に新卒社員として4月から働くため、アメリカから日本へ帰国した。
大きなスーツケースをひとつだけ持って帰国したが、最初は家探しのため2週間ほどホテル住まいだった。
お金はその前に通訳としてアメリカのオーランドで働いた分があったので、親から金銭的なサポートは受けずに全て自分で賄い、生活した。
正直東京しか知らなかった私にとって日本の田舎は新鮮で、これからの人生にワクワクすることもあったが不安も大きかった。車も持っていなかったし、知り合いもいなかったため、不便に感じる場面も多々あった。
間もなく家が見つかったが、やっとの思いで見つかったアパートはオンボロ。不安が増すばかりだった。
3月に入ってから、一度親戚に会いに東京へ遊びに行ったが、自宅に帰ってから体の不調を感じ、そのまま体調を崩した。発熱、喘息、喉の痛みなど、風邪に似た症状が出たが、これが厄介で37.5度前後の熱が2週間くらい続き、倦怠感が尋常ではなく、辛く、しんどかった。看病してくれる人も、頼れる人もいなかったので、買い物に行くのも病院にいくのも一苦労だった。しばらくはインスタントスープを飲んで凌いだ。当時はフローリングの上に布団を敷いて寝ていたのだが、寝汗をたくさんかいたせいで、せっかく買ったばかりの布団をカビらせてしまった。
今思えば、この時からうつ症状が始まっていたのかもしれない。
私は実は一度大学3年生の頃にうつと診断されたことがある。この時はちょうどアメリカから日本に逆留学をしている時だった。姉妹校である東京の大学に在学していた。2009年から2010年のことである。
帰国してから半年近く経っても身体が重く、起き上がれないといった症状に悩まされ、数ヶ月で6キロも痩せてしまった。ベッドにいる時間が増えていき、流石に時差ボケにしては長すぎるだろうと不安になって精神科を受診したら、「非定型うつ病」と診断された。今はいわゆる典型的な「うつ病」と診断されているため、当時の医師の判断が正しかったのかどうかは分からない。
ただ、その時は1年以内で病気が治って、薬の断薬に成功することができた。精神科からもらう薬を飲んでも症状が良くならず、最終的には5種類の薬を処方されるはめになり、それが災いしたのか、薬の副作用の影響で毎晩寝ている間に悪夢にうなされ、発狂するようになった。薬を断薬したらみるみる元気を取り戻し、アメリカへ戻って専門学校で好きな勉強をしていたらうつのことなど忘れていた。
私のうつ病が再発したのは、日本に戻って会社に勤めてからだ。
アメリカの精神科医は「日本にいるとうつ病になるんじゃないの?」というが、あながち間違っていないのかもしれない。でも、私のうつ症状はアメリカにいた時からあったような気もするので、正直なところよく分からない。
話は戻るが、2014年3月の入社前に身体を崩した私だが、4月の入社日までに体調を戻したかったため、気合いでなんとか熱を平熱まで戻した。本当に気合いで元気になったかどうかは分からないけど、入社日前日にやっと症状が治まったのだ。
入社して、社員研修を2週間程受けた。社員研修の間は同期と一緒に働けて楽しかった。ゲーム会社で働くこれからについてワクワクした。
しかし、雲行きが怪しくなったのは辞令を渡された時だった。
会社に応募した時は「企画職」で採用された。
私はゲーム開発を目指していて、ゲームの企画に携わりたかった。
しかし渡された一枚の紙には営業部マーケティング課と記載。
経営者からは、開発をする前にまずはゲーム市場のことを知って知識と経験を積んでからにして欲しいと言われた。
“そうか、新卒社員が希望部署に入れないことは多々あるし、これは勉強で一時的なものなんだ。”
その時の私はすんなりと受け入れていた。
地獄が始まるとも知らずに。
新卒歓迎会で同期と一緒に上司(男性・次期部長に昇格)に挨拶しに行くと、初めに言われた言葉がこれだった。
「aimaさんってイケイケドンドンなの?」
私はこの言葉を聞いてなんとなく胸がちくっとした。帰国子女に対する“偏見”と“差別”を人生で初めて感じたからだ。
確かにアメリカで教育を受けてきて、自己開示や自己主張することに抵抗はあまり無いと思う。だけど私は体育会系でもなければイケイケドンドンでもない。至って消極的だ。
そもそも、初対面の人にその言い方は失礼だと思った。
上司に悪気がなかったとしても、正直この人が上司になるのかと思うと不安で仕方がなかった。
また、直属の先輩(女性・次期課長に昇格)との関係もあまり良いものとは言えなかった。
営業部1日目に、私は家族からもらった大切なネックレスをつけて、ビジネス向けのセミフォーマルな格好で出社した。
しかし新卒社員がネックレスをつけているのが気に入らなかったのか、先輩から
「うちはチキンだからそんなネックレスつけて来れへんわ〜。」
と嫌味を言われた。結局その日はネックレスを外して1日過ごした。
そんな小さな心の傷が積み重なっていった。
マーケティング課に入ったといっても、まだ試用期間中だったため、4月末に正式な辞令が降りた。私はマーケティング課に入ったなら、プロデューサーとして開発に携わってやる気持ちでいたが、その時に入社して初めて挫折と絶望を感じたのだ。
営業部営業課に正式に配属されたのである。
流石に、企画職で採用されて、営業課に入るとは思っていなかった。
上司からはこれも勉強だと言われた。
5月からはスーツを毎日着用し、ゲームショップの店長に頭を下げながら外回りをする毎日へと変わった。
“私は、アメリカの大学に首席で卒業して、一流の専門学校へ自分のお金で行って、国境を超えて日本まで来て、今、何をしているのだろう。”
もちろん活かしたいと思う英語も、使い道はゼロだった。
やりたいことから離れてしまった業務内容に困惑し、モチベーションも上がらず、ただなんとなく日々を過ごしていた。たまに何かあると上司から理不尽に怒られることがあった。
正直どうでもいいや状態が続いていた。
上司は、気に入らない社員に対してはイジメのように怒って泣かせる人だった。気づいたら私も怒られる対象になっていた。
そして私も、怒られると上司の前で泣いた。
自分が何故怒られているのかもよく分からず、今となっては記憶がはっきりとしていないが、とにかく怒られることに怯えながら過ごしていた。
しかし転機は訪れた。それから2ヶ月後の7月に、また部署異動の連絡があったのだ。
その時の部署は開発部業務管理課。
業務管理課というほどなので、基本的には開発サポートや事務をする部署だった。
それでも開発部に入れることが嬉しかったし、何より今の部署から出られることが最大の喜びだった。
新しい上司は元楽天の社員で、私と同じく帰国子女だ。
この時から私の人生は一転して明るいものになった。
8月から業務管理課に入り、小さな部署だったが開発している先輩や社員と関わることができて楽しかった。周りの人たちも優しくて穏やかな環境だった。
上司も頭が良くて、部下にとても優しかった。
入ってみると、業務管理課の大きな目標は会社全体の仕組みを効率化・最適化し、社風を改善していくことだった。例えば稟議書やハンコを電子化したり、外注管理システムを導入したりすることで、業務の滞りをなくし、売上に繋げていく。またの時は、予算管理や予算圧縮などを提案して費用を最低限まで落とし儲けを上げる。
私の上司は明確に会社の改善点を指摘し、会社の将来のビジョンを可視化してくれた。
私のモチベーションはみるみる上がっていき、これから会社を良くしていきたい気持ちでいっぱいになった。
そこからは誰が見ても私の顔は明るくなっていったと思う。
しかし、それも束の間だった。
続く
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