そして誰も臭くなくなった
政府が推進する『健康第一政策』の名のもと、食品業界は密かに『ステルス値上げ』を体系的に進めていた。炭水化物は国家の敵とされ、糖質制限ダイエットが『究極の健康法』として国を挙げて称賛される時代が到来した。政府、食品メーカー、メディアが一体となった巨大なプロパガンダは、国民の食卓を根底から塗り替えようとしていた。
テレビやネット広告では、『きつねうどんミニ』が国策商品として大々的に宣伝された。『これは全世代に必須です! 少量だから消化に良いし、糖質も控えめ。健康診断の数値も劇的に改善!』というセリフが、政府公認の健康番組で繰り返し流れる。『糖質制限こそが国家の未来!』というスローガンが街中を埋め尽くし、人々の意識に深く刷り込まれていった。
スーパーの棚には、ミニうどん以外にも数えきれない種類のお粥が義務的に並べられ始めた。高齢者向けに美しく装飾されたミニサイズのお粥たち。それらには、糖質カット・塩分控えめの政府推奨マークが燦然と輝いていた。しかし、その背後にはさらなる闇が潜んでいた。
最初の異変は、公共交通機関から始まった。毎朝の通勤電車に漂うケトン臭。糖質を極限まで制限された人々の体が、ケトン体をエネルギー源として代謝した結果、生み出された独特の臭いだ。しかし、政府はそれを『健康の証』として称賛し、メディアは『国民の努力が形となって現れています!』と報道した。
『最近、街が妙に臭くないか?』と小声で囁く者たちは、『反健康主義者』として監視対象となった。職場でも家庭でも、街角でも、異臭は広がっていく。しかし、人々はそれを口に出すことを恐れた。政府は『健康第一政策』に逆らう言動を『国家への反逆』とみなし、厳しく取り締まっていたからだ。
糖質を抜けば健康になると信じ込んだ人々は、ケトン体の増加による体臭を撒き散らしていた。満員電車は地獄と化し、オフィスはケトン臭に包まれた。それでも誰も何も言わない。否、言えないのだ。
政府はその状況を知りながらも、『国民の健康意識が高まっている証拠です』とコメントし、問題視することはなかった。
数年後、街全体が臭いに包まれた日本は、ついにその臭いと向き合わざるを得なくなった。自分の体臭に気づかない人々ですら、他人の臭いに耐えられなくなり、防臭マスクの着用が義務化された。しかし、政府や企業は何の対策も示さない。『健康になったんだから、これでいいじゃないか?』と一蹴されるのがオチだった。
それでも、人々の心には小さな疑問が芽生え始めた。『このままで本当に良いのか?』しかし、その声はすぐにかき消された。そんな中、ある日、政府公認の新製品が登場する。最新の『抗ケトン臭サプリメント』である。
『これを摂取すれば、健康的な生活を維持しながら、臭いの問題も解決できます!』と、政府高官が笑顔でテレビに登場した。国民は競ってそのサプリを手に入れ、飲み始めた。
やがて、街から臭いは消えていった。電車もオフィスも、ケトン臭に悩まされることはなくなった。街を歩けば、空気は清々しい。人々はようやく解放されたのだ。
だが、それは本当の解放だったのか? サプリには強力な精神安定剤が含まれており、人々の思考や感情や感覚を鈍らせていたのだ。
『そういえば、あの臭い、いつから消えたんだっけ?』しかし、それを尋ねる者はいない。誰もが無表情で、ただ政府の指示に従い、日々を過ごしている。臭いが消えたことを喜ぶ感情すら、彼らの中から消えていた。
こうして、日本は『健康で臭くない』完璧な社会を手に入れた。しかし、その代償として、人々は自らの自由と思考を失ってしまったのだ。
そして誰も臭くなくなった。
武智倫太郎
自己解説
この作品は、『おおかみ のみね』さんからいただいた『きつねうどんミニのようなのは、実は高齢者にウケているのです。あと炭水化物抜きダイエット中の人とか、健康診断でひっかかった人向けですね。高齢者向けのお粥も近年バリエーションが激増してます。』というコメントをベースに作成しました。
作品中に登場する『ケトン臭』が何か分からない方は、以下のYouTube動画を見ると理解できるはずです。
ちなみに、ケトン体は、体が糖質の代わりに脂肪をエネルギー源として利用する際に生成される物質です。ケトン体を増やし、糖質を制限して脂質を多く摂取する『ケトン食』は、癌やアルツハイマー病に対する効果が研究されていますが、その有効性についてはまだ明確な結論が出ていません。
癌に対する効果
一部の前臨床研究や小規模な臨床試験では、ケトン食が特定の癌細胞の増殖を抑制する可能性が示唆されています。これは、がん細胞がエネルギー源として糖質に依存していることに関連しています。しかし、これらの研究はまだ初期段階にあり、ケトン食がすべての種類のがんに有効であるとは限りません。また、ケトン食は栄養バランスの偏りや副作用を引き起こす可能性があります。
アルツハイマー病に対する効果
アルツハイマー病の患者では、脳が糖質を効果的に利用できない場合があるため、ケトン体が代替エネルギー源として役立つ可能性があります。いくつかの研究で、ケトン体の増加が一部の患者の認知機能を改善する可能性が示されています。しかし、この分野の研究もまだ限定的で、長期的な効果や安全性については不明な点が多いです。このような情報は、高齢者が『ココナッツオイルがボケに効くみたい』と言い出したら、その手の流行に踊らされている可能性もあります。
総合的な注意事項
ケトン食やサプリメントを試す前に、必ず医療専門家に相談してください。自己判断による食事療法は、健康にリスクをもたらす可能性があります。現時点では、ケトン体が癌やアルツハイマー病の治療法として確立されているわけではありません。さらなる大規模な研究が必要です。ケトン体がこれらの疾患に対して潜在的な効果を持つ可能性はありますが、科学的根拠はまだ不十分です。適切な診断と治療を受けるためには、医療専門家と相談することをお勧めします。