令和阿房列車論~その11『実歴阿房列車先生』より(4)
私のnote記事もついに公開100作目を迎えました。
実際は101作目になりますが、うち1作は重複記事になってしまったため削除しました。
最近はフリー記事の『お口直し』よりも『禁煙日記』が中心になっていますが、公開100作目は本来ここで展開しようとしていた『令和阿房列車論』で迎えたいと考えていました。
『令和阿房列車論』とは、1950年代に内田百閒氏がヒマラヤ山系こと平山三郎氏を連れて日本の鉄道旅行をした『阿房列車』シリーズをリスペクトし、私なりの内田百閒論ならびに令和の時代における旅行について論じたいと思い書き連ねている記事の数々です。
『令和阿房列車論』自体約1ヶ月近く間が空いてしまいましたけれども、表題の『実歴阿房列車先生』は少しずつではありますが読み進めております。
『実歴阿房列車先生』を読み進めていると、この作品はヒマラヤ山系こと平山先生による百閒先生の伝記だったことが如実に表現されています。
晩年の百閒先生は好きだったお酒もたしなむ頻度が減ったり、日常生活も奥様の助けがないとほとんど動けない状態だったことがこの作品で伺えます。
いまは百閒先生没後の平山先生による後日談あたりを読んでいます。けれども、汽車好きの百閒先生と言えども作品でも書かれている『煤煙』の匂いのする汽車が好きであって、現代の新幹線などのいわゆる『電車』では阿房列車にはならないと思うのは私だけではないと思います。
私が汽車旅行をするようになった時代にはすでに蒸気機関車牽引による定期列車はなくなってはいました。けれども、重油の匂いがするディーゼルカーの旅行で百閒先生の足元にも及ばないとはいえ、そのような列車が好きでした。
北海道出身の私の好きな鉄道路線は根室本線(花咲線)で、現在運用されているキハ54-500ではなく国鉄時代のキハ56『急行ノサップ』やキハ22の普通列車に揺られるのが好きでした。
また、道内でよく利用した『特急北斗』も現在のキハ261系ではなくキハ183系の方に郷愁を感じます。
もともと、コロナ禍における己の旅行欲を癒すために読み始めた百閒先生の『阿房列車』シリーズを読破して、そこから、この作品で百閒先生の一生を知ることになるとは思っても見ませんでした。
この作品を読んでみて、百閒先生は根っからの文系人間ということを知ると共に、自分自身も(一度は理系コースに進むも)文系コースに鞍替えする人生を送って、一度小説もどきの作品を自費出版で作ったり、ここでコラムを書いているので、人生どう転ぶかわからないと思うのです。