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「パリに暮らして」 第17話

 ――アパルトマンに戻ると、柊二さんは電話台のところに駆けて行って電話帳を引っ張り出し、パリ中の大病院に片っ端から電話をかけ始めた。
「最後に美術館で会った時、リザはコンサートに行くと言ってた」
 なかなか繋がらない病院への電話にイライラした様子で、柊二さんは言った、
「今夜。バタクラン劇場にね」
 その夜は、イーグルス・オブ・デス・メタルというロックバンドのコンサートが行われるということで、そのバンドのファンだという友達に誘われて出かけるのを楽しみにしていたそうだった。二度目のニュース速報の冒頭に出て来たバタクラン劇場という言葉が、柊二さんを凍りつかせた。
 ひとつの病院に繋がるのに三十分ほどもかかり、やっと繋がったと思ったら、怪我人が多数搬送されて来ていて、まだとても一人一人の名前や住所を判別出来る状態にないと言われ、やがて落ち着いたら全ての病院から患者の家族に連絡が行くはずだから、とりあえず自宅で待機していて欲しいと言われた。リザの安否はなかなか確認できなかった。
「とても今夜中には無理そうだ」
 テレビのニュース番組に目をやりながら、柊二さんは溜め息をついた。ニュースでは、テロ事件が起きた現場からのリポートが逐一流れていた。駆けつけたリポーターは興奮していて、騒然とした雰囲気の中、私には聞き取れないほどの早口で激しくまくしたてていた。

 柊二さんは落ち着かず、アパルトマンの部屋から部屋へ行ったり来たりしたかと思えば、廊下に出て玄関先まで歩いてまた戻ってきたり、そういったことを絶えず繰り返していた。私は暖かいお茶を入れたが、少し座ってひと口お茶を飲むと、また立ち上がって、まるで身の置き所が無いように振る舞うのだった。
「駄目だ。気が気じゃなくて、とてもじっとしていられない」
 とうとうそう言うと、柊二さんは上着を取りに行って、出かける支度を始めた。
「僕はこれからバタクラン劇場周辺の大きな病院を回ってリザを探してみる。とてもここで待ってなんかいられないんだ。……長い夜になるかもしれない。君、ここにいて、政府かどこかの病院から連絡が入ったりしたら、僕に知らせてくれないか?」
 私は、もちろんそうする、と答えた。柊二さんは、風のように出て行った。
 
 
 ひとり残された私は、力無く居間のソファに座り込んだ。こんなことが起こるなんて。恐ろしいというよりも、ただ呆然としていた。事件の起きている現場から遠く離れたメニルモンタンのアパルトマンの中では、その日現場に居合わせて逃げまどっている人々の恐怖など想像もつかない。けっぱなしになっているテレビの映し出す恐怖絵巻にしても、それはおかしなほど現実味がなかった。今まで繋がっていたはずの柊二さんやその周りの人々が形成する社会から、いやそれどころかパリの街全体から引き離された気がして、そうしている内、急に不安になった。
 私はソファに深く座り、膝を抱えてうずくまると、顔をその上に伏せた。目を閉じると、少しはこの心細さから守られるような気がされた。
 電話はいつまでも鳴らなかった。不意に、柊二さんのことが心配になった。テロは局地的に起きているとは言え、パリの街中が混乱しているはずだ。病院に向かう途中で、何らかの事故や事件に巻き込まれないとも限らない……。そう思い始めると、ますます不安になった。
 
 この事件を扱ったテレビニュースは、深夜になっても生放送を続けていて、スタジオに呼ばれた専門家の意見を聞いたり、現場からのリポートを伝えたりしていた。取材班が駆けつけて以来、今までの時点で撮影された映像が、何度も繰り返し流された。
 
 私はいつしか眠ってしまったらしかった。
 電話の音で目が覚めた時、部屋の中は夜陰の気配に包まれていた。柊二さんのアパルトマンの固定電話だけが、ひどくけたたましく、急かすように呼び鈴を鳴らし続けていた。
 私はソファから立ち上がって、電話機のところに行った。受話器を取ると、回線の具合なのか、遠くから聞こえるようなくぐもった声が言った。
「リザ・ペランさんの身内の方のお宅ですか?」
 はい、と私は応えた。パリ十一区にある病院からだった。リザが今、その病院に収容されているという知らせだった。彼女は負傷していて、重傷だという。一刻も早く、ご家族に来ていただきたいというのがその電話の用件だった。
「わかりました。すぐに向かいます」
 私はそう言って電話を切り、自分のスマートフォンを取り出して、柊二さんに連絡しようとした。
 その時、スマートフォンに着信があった。柊二さんからだった。
「病院か政府から、連絡があった?」
 自分のスマートフォンからかけているのだろう、どこからなのか、ひどく電波状況が悪かった。途切れ途切れになる声が完全に聞こえなくなる前に、私は必死で連絡があった病院の名前と、リザが重傷で、家族に出来るだけ早く来て欲しいと言われたことを伝えた。
「わかった」
 柊二さんがそう言った途端、電波は途切れ、通話は切れてしまった。
 
 
 ――その後は、静寂がアパルトマンを包んだ。私は自分が今いる場所のことが信じられなかった。この足下にある床は、このわずかなきしみは、私の属する世界のそれではないように思えた。軽い目眩めまいのようなものと疲労感を覚えて、私は再びソファに座り込んだ。   
 リザの容態はどうなのだろうか。生死にかかわるような怪我を負ってしまったのだろうか。あの〝故人の美術館〟で一度顔を合わせたきりだけれど、あの時の彼女の姿が思い出され、脳裏に焼き付いて離れなかった。
 
 テレビ画面では、騒然としたパリの様子が延々と映し出されていた。まるでそれは、悪い夢のようで、今日、今夜起こっていることだとは思えなかった。私にとっては特にそれが、今自分がいるこの街で現実に起きていることだとは信じられなかった。
 
 画面が切り替わり、未明の街角で、二十人ほどの警官隊がひとかたまりになって警戒している様子が映し出された。どうやらこれから突撃準備に入るらしい。彼等の目前にあるのは、スプレーによる落書きだらけの石造りの建物だ。現場は緊迫した空気に支配されている。テレビ局が、生中継を行っているのだ。
 私は、息をんでその光景に見入っていた。恐怖におののいて、と言うよりは、その場の雰囲気に釘付けになって。今にも何かが起こりそうな、一瞬の予断も許さないピリピリした空気に、全ての関心を奪われてしまって、身動きもできないでいた。
 突然、発砲音が響いた。それに続いて、警官隊が銃を構え、腰をかがめた姿勢で四方に散った。立て続けに銃声が鳴り響いた。
「テロの首謀者と見られている男の潜伏する建物から発砲がありました。警官隊が対応に当たっています」
 ニュース番組のアナウンサーが言った。事件が起こった時に速報を流した女性とは違い、年配の男性だった。
「首謀者のグループと警官隊の間で、銃撃戦が繰り広げられている模様です」
 男性アナウンサーは、緊迫した声で言った。その間も立て続けに銃声は響き渡り、双方かなりの数の銃弾を撃ち合っている様子だった。中継の現場カメラマンは、銃弾を避けつつ、撮影に最適な角度を探しているようだった。 
 身をていして走り回る彼の動きに合わせてカメラは縦横無尽に振られ、空を向いたり地面を映したりした。まるで視聴者もその場にいて恐怖を味わっているかのような、凄まじい臨場感だった。
 時計を見ると、午前五時半を指していた。警官隊は、激しい銃撃戦の末、遂に容疑者のアジトを抑えた、とアナウンサーは伝えた。首謀者は射殺され、首謀者の従姉妹いとこ(女性というのは驚きだった)も射殺された。その他数人の仲間が逮捕された。警官の側にも、数人の負傷者が出たということだった。
 銃撃戦の中継が終わり、画面はまたスタジオの風景に切り替わった。司会者もコメンテーター達も、一様に興奮した様子で、様々なことを話していた。
 彼等の難解なフランス語を聞き取ろうとしている内に、私はまた眠りに落ちていた。

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