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「でんでらりゅうば」 第19話

 アパートに帰った安莉は、クローゼットを開けて、コートを架けた。
 あの日、暗いクローゼットのなかに薄ぼんやりと浮かんで見えた白いダウンジャケットのことが思い出された。
 何かがおかしい。帰り際に、静婆が言った謎めいた言葉も気になっていた。逃げる? 旧道で出会ったアメリカ人の男も同じようなことを言った。
 なぜ逃げなければならないのだろう? 口紅とダウンジャケットの持ち主は、どうなったのだろう?
 落ち着かない気持ちでそんなことを考えながら階段を上がり、部屋の鍵を開けてなかに入った。そして考えにふけったまま洗面所に行って手を洗い、台所で熱い紅茶を入れ、カップを持って居間に来て、何気なく書き物机のほうを見やったときだった。
 机の上に、何か置いてあるのが目に入った。昨夜片付けたときには、机の上には何もなかったはずだ。
 安莉は書き物机に歩み寄り、そこに置いてあるものを見た。
 それは、一枚の紙切れだった。しかも、安莉が雑記用に使っている紙で、その上に殴り書きのようにして文字が躍っている。
 
 あまり詮索するな
 
 そこにはそう書かれてあった。縦書きで、乱暴な筆致の、明らかに何者かの肉筆であるその文字の書かれた紙は、まるで最初からずっとそこに置かれていたかのように、静かに、陰湿な気を放っていた。
 すぐに携帯を手に取り、阿畑に電話をかけた。呼び出し音が何度も鳴るが、阿畑は出ない。安莉は心臓の拍動が速くなるのを感じた。
 
 翌日、アパートから一番近いところにある、御影としつぐの家を訪れた安莉は、家の主人にその紙を見せ、阿畑に電話するが昨日から連絡が取れないことを伝えた。
「……」
 玄関先で、沈黙したままその紙を見ていた御影敏次は、
「わかった」
 と言って、それを折り畳むとポケットに入れた。
「世話役さんは、振興局の用事で二、三日出張に出とらすたい。会議が多かけんちっと電話に出にくいかもしれんて言うとらした。俺はこれば村長むらおさんとこ持っていって、見てもらうけん、ちっとうこらえて待っとってもらえんですか」
 御影敏次は、五十がらみの実直そうな男だった。この人なら信用できそうだ、と安莉は思った。
「お願いします」
 そう言って、お辞儀をすると、安莉は家を出た。
「戸締まりば、厳重にしてな」
 薄暗い玄関から安莉を見送りながら、御影敏次は言った。
 
 だが、それだけでは終わらなかった。
 翌日も、翌々日も、安莉は書き物机の上に紙切れを見つけた。
 
 外を見るな
 
 おとなしく生活していろ
 
 一昨日のものよりももっと荒々しい筆致で、警告するような語気をそれらの言葉は含んでいた。御影敏次の家から戻ってずっと、どこにも出かけずに引きこもっていたというのに、ふと気がつくとその紙は書き物机の上に置かれている。
 紙切れを握り締めて、安莉は震えていた。怯え切った目で、アパート中を見回す。恐ろしいものの気配が、建物全体に充満しているような気がした。誰がこれを書いているのだろう? いつどうやってこの部屋に入り込んで、こんなことをしていくのだろう?
 御影敏次からも、村長からも、連絡はなかった。
 
 

 ――その晩は、この冬一番の大雪となった。湿気を重く含んだ無数の雪の破片は空から飛来する怪異のように勢いよく舞い降りて、時間が発つにつれ結晶を集めて大きくなっていった。初めは村の家々の屋根や軒先にうっすらと粉砂糖のような薄い層を成すばかりだった雪は、降り積もるごとにあのさっさっ、という音をひそめてゆき、遂には無音の内にそのかさを高く増していった。
 村中が綿帽子を被るようにどんどん雪に埋まっていく様子を眺めながら、安莉は心細さに耐えていた。確かに豪雪地帯でもない限り、平地の生活ではこんな景色を見る機会はない。その光景は美しく、詩情に満ちて幻想的だった。けれどこんな心境のときには、その眺めを楽しむどころではなかった。降り積もる雪は、この得体の知れない恐怖と共に自分を閉じ込めようとする悪意そのもののように感じられ、安莉の不安は募っていった。
 アパートのなかが冷えてきたので、暖房をつけ、夕食は鍋にした。ひとり用の小さな土鍋に具材を入れ、そこから立ち上る湯気で暖を取りながら、落ち着かずに何度もサッシのほうへ行っては、夜が深まるにつれ雪の白色にぼうっと照らされていく村を眺めていた。

 
 夜半過ぎのことだった。
 村の家々で、一斉に人の動きがあった。それぞれ控えめに小さな電灯を点け、身支度をしているような衣擦れの音が村中にしめやかに響いた。日暮れ前にあらかじめ雪を搔いておいた玄関口から、厚い上着を着込んだ村人たちが、手に手にカンテラやランタンを携えて出てきた。極寒の山中の夜に備えてそれぞれタオルや温かい素材のマフラーを首と顔周りにまで巻きつけ、その上から毛糸の帽子やフードを被っている。各家庭からひとりか二人は人員を出しているようで、その人々の灯りを持つ反対側の手には、雪掻き用のシャベルが握られていた。
 無言の一行は列を成して神社の反対側にある小高い丘へ向かった。そこには客人を迎えている白いコーポ風のアパートがあった。
 丘の上に上り、アパートの周りをぐるりと取り囲んだ村人たちは、雪に降り敷かれた地面の上に倒れないように慎重にカンテラやランタンを置いた。月明かりすらない、暗黒の空からまだ大きな雪の塊がひっきりなしに降り注ぐなか、地面に置いた照明器具に照らされた彼らの顔は皆一様に表情を欠いているが、これから行われる行為に対する荘厳な決意のようなものもうかがわれる。その姿はどう見ても異様で、怪しげな宗教めいた色合いさえ帯びていた。

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