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【エッセイ】自発的な動き

今朝、寝室で目覚めた時、私は幸せだった。

秋の訪れを告げる風の、涼しい朝。慌てて起きる必要の無い、ゆっくりとした起床。隣には美しい猫が寝ていて、その宝石のように綺麗な目を開けてこちらをじっと見ている。

騒音の無い、静かな朝。聞こえてくるのは鳥のさえずりだけで、カーテンの隙間から、明るい柔らかな光が射し込んできている。
その光は私達に向かって優しく微笑んでいるようだった。

「毎日、こんな朝を迎えられたらいいな」
と、ふと思った。

自発的な起床。自分の心がそれを〝受けて〟、素直に自然な反応から起こってくる動き。
私にはもうずっと長い間、そういったことが無かったように思う。
私が何かする時の動機はといえば、ある人の言動に対する反発から来るあてつけであったり、今いるところから逃避したいが為の一時的な気休めといったものだった。そんな風にしか、私は動けなかった。
笑ってしまうほど不器用だからというのも理由のひとつだろう。けれどこの、自分が持つ多くの欠点のひとつを、最近の私は強く自覚することができている。
不思議なもので、強く自覚すると、後は簡単に〝開き直る〟ことができるようになる。「不器用ですが、何か問題でも?」という、ある種厚かましい意識でいられるようになってくる。そしてそれはやがて、問題に対する時の自らの姿勢――Attitude――になってゆく。

人生も50を迎えると、中身が問われる。と、いうより、若さや気合のようなもので誤魔化せていたものがおぼつかなくなってくる分、半世紀をかけて作り上げてきたものや、うっかり育て上げてしまったものなどが隠しようもなく滲み出てきてしまうようになる。これまで積み上げてきたもの、知恵、経験、失敗、反省、どうやって立ち直ってきたか、立ち直ろうとして何をしてきたか、等々……〝これまで〟を総動員してこの先に対処していかなければならなくなる。

 若い頃は、滅多やたらと楽しかった。世の中は広く、まだ経験していないことが沢山あって、私は出来るだけ多くの経験をしたいと、胸を躍らせていた。そして又、〝知らない〟ということ自体を楽しむという奇特な癖も、私にはあった。何故なら〝知らない〟ということは、イコール無限のイマジネーションを使って〝遊ぶ〟ことが出来る余地があるということだから。

私には元来、妄想癖があるのかもしれない。実際、私の書く小説はほぼその妄想の具現化だろう(だから書いていてシビれるくらい楽しいのかもしれない!)。

けれど、やはり、人生の折り返し地点と言ってもいいのだろうか、これくらいの歳になってくると、流石に往時の楽しさは無い。ファイナンシャルプランとか、ロボット研究とか、学びこぼしたものや全く専門外の未知の分野はひとまず置いておいて、自らが経験してきたもの、歩んできた同じような道に関しては、そろそろ少しんでいる。もっと知的欲求を満たせるものごとや思考の深いところまで潜っていけるような新しい経験をしたいと思うようになっている。

今の暮らしをガラッと変えたいと望むことは、エゴだろうか?

帰港し、ドックに入り、様々な点検と修理を受け、もう再び出港する準備が整ったと思うのは、時期尚早だろうか?

自発的な動き。 心の内面から出てくる純粋な欲求。

それに従うことは、間違ってはいないと感じるのだけれど。

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