【縣青那の本棚】 共食いの島 スターリンの知られざるグラーグ ニコラ・ヴェルト 根岸隆夫 訳
*この記事にはショッキングな内容や残酷な描写が含まれています
実際に起こったことが書かれた史実本についての感想ですが、苦手な方は閲覧をお控えいただくか、注意しながらご閲覧下さい
「西シベリア
ナジノ島 1933
「強制収容所」のほかに、第二のグラーグ
「強制移住・遺棄」の場所が多数あった。
その実態がはじめて明らかになる。発端は
シベリアのオビ川に浮かぶナジノ島の悲劇。」
ハードカバーの単行本の帯にはこうある。
これは、新生ソ連の混乱の最中に起きた非人道的事件〝ナジノ事件〟について書かれた驚愕の書である。
1917年、史上初の社会主義国家であるソビエト社会主義共和国連邦が樹立してから16年後。
1933年の早春、西シベリアのオビ川に浮かぶ無人島、ナジノ島に、6000人の着のみ着のままの人々が移送され、遺棄された。
その人々は、モスクワとレニングラードで逮捕され、「階級脱落分子」「社会的有害分子」のレッテルを貼られた市民だった。
1929年、ロシア革命以来一緒にレーニンを取り巻いていた同輩・政敵であったトロツキーやブハーリンを党内闘争で打倒したスターリンは、新しい革命「上からの革命」(富農階級の撲滅・農業集団化・第一次重工業化)に着手した。
*〝富農〟とは文字面では裕福な農民を指すように見えるが、実際は集団化に反対する農民や、農民以外にも司祭など社会主義体制の妨げになるとされたあらゆる人々がこの分類に組み込まれた
スターリンは第一次重工業化の実施に伴い、外国から重工業用の機械を買い入れる対価を穀物によって支払った。その為に凶作にも関わらず翌年の作付けに使われる種籾までをも徴発された結果、穀倉地帯ウクライナは大飢饉に襲われる(この人為的に引き起こされた飢饉により、最終的に300万人もの人が餓死したと言われている)。
農民はパンを求め、大挙して都市へ流入。その結果混乱した都市では犯罪が激増した。
ソ連には当初から「秘密警察」(Cheka、 Vecheka)と呼ばれる機関が存在した。日本で言えば公安のような位置付けになるのだろうが、より広域に、大きな権限を与えられた機関であった。秘密警察は1922年以降OGPU、1934年以降NKVDと名を変え、現在も存続している。
1930年代前半、当時OGPUと呼ばれていた秘密警察は「大都市の浄化」と称して都市に逃げ込んでいた元富農や市民の中の「階級脱落分子」「社会的有害分子」の一掃を決め、西シベリアへは13万人強(1933年)が強制移住させられた。
シベリアに送られた犠牲者の最終的な総数は131万7000人に上ると言われており、その数に比べれば、ナジノ島の6000人という人数の規模はほんの芥子粒一粒に過ぎない(0.5%)。
しかし筆者ニコラ・ヴェルトの発掘したこの事件の資料は、ソ連の強制移住政策の全容を知る糸口になった。
ナジノ島事件は、非常に特殊な事件として位置づけられている。
シベリアとカザフスタンの広大な未踏の地に「特別移住者」を入植させるという、ソ連政治警察のユートピア的計画にもとづく大社会改造運動の初期に、「特別移住者」の尋常ならざる大集団が移送された。
この計画はあまりにも壮大過ぎて、特別移住局のあらゆる段階の責任者は不意打ちを食らい、それまで数年かけてつくりあげた「富農撲滅を管理する」制度が全く機能しないことを白日のもとに晒した。
この「壮大な計画」は、1933年初めにOGPU長官ゲンリフ・ヤゴダが発案したものだったが、結果的には、ごく部分的にしか実施されなかった。
開始から数ヶ月経つと、この抑圧装置は移住者割り当てを「消化」出来なくなり、中央部門と地方部門の協力は失敗続きで、大規模移送は少なくとも数年間中止されることになったのだ。
ナジノ島事件は、いみじくもスターリンがその計画を「経済的な利益がない」と見て棚上げにした数日後に起こっている。
ナジノ島事件
ナジノ島に移送・遺棄された6000人の移住者の3分の2が、飢餓、消耗、病気のせいで島に遺棄されてから数週間で死んだ。
3分の2と言うとピンとこないが、これは実に4000人という人数である。数週間の内に、4000人もの人が死んだのである。
川岸には移住者用の食料として大量の小麦粉の袋が積まれていたが、移住者の人数があまりにも多く、しかも分配する為の容器もなければパンを焼く窯もないという有り様だった為、まともな食糧分配など出来ようはずもなかった。被っていた帽子でもらう人、靴に受ける人、何もない人は、両手を差し出して分配を受け取ったという。
パンを焼く為の釜が無い為、人々は小麦粉を川の水で溶いて口に入れた。川の生水のせいでお腹を下し、病に倒れる人が続出した。
ーー飢えた人々は、最終的に人肉食に走った。生きた人間の肉を削ぎ、切り取って食べた。
飢えに苛まれ、人間性を失った人々は、生きた人間のみならず、死肉食をも行った。
ナジノ川近隣にあるエルガンキナ村の農婦による、生々しい証言がある。
一部を以下に抜粋する。
人々がこのようなむごたらしい極限状態に陥るに至ったナジノ島事件が明らかにしたものとは、一体何だったのだろう。
それは、ソ連の一地方を支配した暴力と堕落の環境がいかに特異で黙示録的だったかという現実だ、と著者ヴェルトは語っている。
〝黙示録的〟という言葉の意味が、キリスト教徒でない私にはスムーズに想像出来なかったのだが、強いて言うなら人間の状態として最悪な、〝堕ちるところまで堕ちた〟地獄絵図、とでも解釈すれば良いのだろうか。
ヴェルトは続ける。
すなわちこの地方は、1930年代初期に大量移住と住民の大量追放によって根底から揺るがされ、慢性的な食糧不足、というより飢饉に悩まされ、農村部では強盗団が横行し、都市部では犯罪が猖獗を極めていたのだ。
そのなかでも、西シベリア、すなわちソビエト極東の辺境は特筆されるべきで、そこは建設途上の社会主義社会から放逐され強制的に移住させられた人びとを監禁する場所だった。同時に国境地帯であり、ゴミ捨て場だった。
そのような場所に、何故モスクワやレニングラードなどで普通に都市生活を送っていた市民達が強制移送される羽目になったのか。
そのいきさつについて考えてみよう。
ことの発端は、スターリンによる「上からの革命」で、ソ連中がごった返しの状態だったことにあった。富農階級の撲滅と農業の集団化は、古くから土地を耕してきた農民達の多くを追放・逮捕し、監獄に送り込んだ。第一次重工業化の実施のせいで飢餓に襲われ、農村を離れて都市を大挙目指していた農民達もまた、大量に逮捕された。
各地方都市の監獄はあっという間に逮捕者で溢れたが、都市部においても、状況は同じようなものだった。
1932年12月28日に党機関紙『プラウダ』によって発表された法令は、モスクワを始めとする特別管轄都市の〝浄化〟を目的とするものだった。(特別管轄都市の指定を受けたのはモスクワ、レニングラード、ハリコフ、キエフ、オデッサ、ミンスク、ロストフ・ナドン(ドン川流域)、ヴラジカフカス、マグニトゴルスク、ウラジオストク)
つまり、これ以降は都市、あるいは労働者集団住宅に居住する者や、交通機関や戦略的とみなされるいくつかの大型建設現場で働く16歳以上のソビエト市民は旅券の携行を義務づけられることになったのだ。
当人はこの旅券を持って、正式登録のために住まいの最寄りの警察に出頭しなければならない。この住民登録がなければ、旅券には効力がない。
こうして本人の身元と住所の二重の照合が制度化された。
この制度は特別移住者大量発生を大きく加速化させるものだった。何故なら、旅券発行の手続きによって、都市に隠れ潜んでいた元富農や「階級脱落分子」「社会的有害分子」などの〝反ソ分子〟を炙り出し、都市から追放することが可能になったからだ。更に、深刻な問題となっていた監獄の超過密状況にも解決策を与えるものとなった。
当局はそれらの人々をひっくるめてシベリアなど僻地に〝移送〟し、自然の厳しいその土地に定住させ、〝特別村〟と称するユートピア的コミュニティを形成し、土地を開墾し自給自足させ、のちには農業生産を可能にするつもりだった。
それが1933年初頭にOGPU長官のゲンリフ・ヤゴダが打ち出した「壮大な計画」だったわけだが、これは具体的には1933年から34年にかけて西シベリアとカザフスタンに200万人の「都市と農村の反ソ分子」を強制移送するというものだった。
あまりにも壮大なこの計画は、実際に実施するにはあまりにも多くの困難を抱えていた。というか、実現するわけがなかった。
けじめ無き逮捕
「警察職員は、旅券をもたない者、未登録の者はだれであれ犯罪を犯したか、監獄、収容所、移住地から脱走し痕跡を消そうとしているか、これから犯罪を犯そうとしている容疑者として見逃してはならない」
これは、市警察むけに出された業務命令である。
ナジノ島へ送られた人々の内訳は、1/3は「札付きの犯罪者」であった。そして半分を、浮浪者、乞食、こそ泥、ならず者が占めていた。ある矯正労働収容所管理総局西シベリア支局監督官によると、「物乞いしたり、泥棒したり、インチキしたりする、ひと言でいえば勤労意欲ゼロ、他人に寄生する住所不定者で、社会主義社会になじもうとしない輩」ということだった。
そして、第三の種類――これは約15%を占めていたが――は、政治警察員自らが認めているとおり、
「たまたま一斉手入れで捕まり移送された人たち」だった。
彼らは、例えば
・首都に職探しに来ていたコルホーズ員や季節労働者
・たまたま旅券を携帯していなかったモスクワ市民やレニングラード市民
・書類を家に置いてきたにすぎない人々
・モスクワあるいはレニングラードを通過中だった人々(駅で逮捕された)
・労働証明書その他の書類を持っていたにもかかわらずそれらの書類を無視された人々
だった。
明らかに合法な身元を確認するに足る書類を持っていた人々を、警察がためらわずに強制的に逮捕・移送したことは明白だった。
「旅券必携地区」で当局が唯一認める「旅券」を持たずに職務質問された人は全員そのことだけで容疑をかけられたうえに「社会的有害分子」とみなされた。
「旅券を家に置いてある」と言っても、取りに帰ることも許されなかった。
以下に、1933年4月末に行われた一斉手入れで逮捕された人々の実例を引用する。ちょっと長いが、そのどれも刮目に値する現実だ。
モスクワに住民登録があり、責任ある仕事に就いていて身元も明確に確認出来るというのに、〝旅券〟をその時に〝携帯〟していなかっただけで逮捕・移送されたのだ。
わけもわからず「お父さんが帰ってこない」「娘がいなくなった」「家族が行方不明」といった事象が、その時都市の至るところで起こっていたのだろう。
だがこれらの人々はまだ少数に過ぎないという。逮捕・移送者の大多数はモスクワに住んでもおらず、一時滞在や移動中たまたまモスクワを通過していた人で、たいていは駅で捕まった。
これら数多くの逮捕例の中の、とびきり典型例とされるのは次の例だ。
ロシア語が話せない12歳の女の子だろうが、戦艦艦長の妻であろうがおかまいなしに逮捕・移送されている。日本で言えば小学校6年生の女の子は言葉もわからない状況で1人で移送されていく間、どんな思いでいたのだろうか。産み月間近の女性を問答無用で逮捕し移送する神経とは、どういうものなのだろう。
だが、駅やその周辺で逮捕された人びとのなかで圧倒的な割合を占めたのは、飢餓を逃れて途中の難関を突破し、やっとたどり着いた農民だった。
1933年の飢餓の時期に単独または家族で到着する農民は、コルホーズから用務で派遣されていようがいまいが、企業や建設現場の採用係から受け取った採用契約があろうがなかろうが、徹底的に無視され逮捕された。採用係が被採用者たちと一緒に逮捕・移送されることも稀ではなかったという。
警察の目的は、「護送隊の枠を満たし、数字の結果を報告する」これに尽きていたのだった。
そういった不審尋問に引っかかった人たちが警察署で過ごした時間はとても短く、つづいてなんの手続きもないまま、シベリアに出発するOGPU輸送部の特別護送の貨車に乗せられた。実施されるべき手続きのルールはあったが、指数関数的に増える移送者の数に、すぐに手続きは省かれるようになった。
「ポエジャイエテ・タム・ス・ヴァミ・ラズベルツィア!」
(出発しろ、向こうに着いたら君の一件について説明がある!)
――これが、逮捕されて近親者への連絡を許されずに抗議する人たちへの典型的な回答だった。
更に、警官は人々の持つ書類や証明書、労働組合員証、政治組織発行書類を頻繁に没収した。彼らの最優先事項はとにかく逮捕者を挙げて護送隊の枠を満たすことであり、捕まえた「階級脱落分子」の身元を考慮することは彼らの仕事を遅延させ、ノルマ達成の妨げになることでしかなかったのだろう。
「旅券をもたない者、未登録の者はだれであれ容疑者として見逃してはならない」
市警察は、業務命令に書かれた文言だけを忠実に実行していたのだ。
警官に書類を取られずにすんだ者でも、シベリア移送の中継地トムスクへの長旅の途中、それを一緒に移送されている犯罪者に脅し取られて「タバコの巻き紙」に使われた。
自分の身分を証明することの出来る書類をことごとく奪われていくというのは、どういう感覚だろう……。トムスクを経てシベリアに着く頃には、自分はもう〝何者〟でもない。自分はもう全くの根無し草で、どこの誰であるということを証明する手立ては永久に失われてしまっているのである。
こんな恐ろしいことがあるだろうか?
ナジノ島事件によって強制移住計画の破綻が発覚
シベリアの北側の奥地、ソ連で最も自然が厳しく、人が住むに適さない土地と言われるアレクサンドロ=ヴァホフスカヤ管区への階級脱落分子の輸送は混乱を極めていた。
まず、1993年5月5日に、管区指揮官ツェプコフのもとに同日に2通の電報が届いた。
1通目はシブラーグ指導部からのもので、トムスクから3000人の階級脱落分子を送るとのお達しだった。そして2通目はトムスク中継収容所からで、そちらはそちらで5000人から6000人の「分子」が到着すると言っている。
この知らせで管区はパニックに陥った。実は、今の今までどこからも6月末より前に移送者が来るとは伝えられておらず、3000人が来るにしても6000人が来るにしても、まだ全く準備は整っていなかったのだ。
しかも、こちらからシブラーグ本部に打った「あと数週間しないと移送者を受領出来ない」という電報は、「シブラーグの決定である」というひと言に押し殺されてしまった。
「都市階級脱落分子」という呼称も、彼らにとっては初めて聞く言葉だった。管区指揮官ツェプコフは、これまでの経験を経て、富農とか通常の農民のことなら色々とわかるようになっていたし扱い方も承知していた。が、都市出身の社会的有害分子といった人々については全くの無知で、それゆえ送られてくる全員が非常に危険な犯罪者だと勘違いしてしまったのだ。実際に送られてきた中には、旅券を持たなかったかどで逮捕され移送された〝普通の都市生活者〟も含まれていたのだが、それを知るよしもないツェプコフは犯罪者を恐れるあまり、「もしこの有害分子達をアレクサンドロフスコエ村やすでに元富農と現地人であるオスチア人が入植している村に降ろせば、地獄の沙汰だ」と判断した。有害分子達は略奪の限りをつくして、地元民を虐殺するだろう、と想像してしまったのである。
このことによって、アレクサンドロフスコエの上流70キロ、ナジノ村に面したオビ川の真ん中にあるナジノ島にいったん「不良分子」を降ろすことに決めた。そしてそこからオビ川の多くの支流のひとつナジナ川に沿って、人里からはるかに離れた「最終移住地」までこの集団を船に分乗させ護送することとした。
地区党委員会の決定は、プロレタルカ村の近くという別の下船地を指していたが、「党決定」に逆らってツェプコフが最後の瞬間に自分の一存でナジノ島を下船地として選んだとされている。
大雑把にまとめると、
・モスクワ、レニングラードにおけるけじめのない一斉大量逮捕と拙速な移送
・無計画に送られてくる移送者の数に対応出来なくなり「どうでもいいからとにかくシベリア方面に送り出してしまえ」といった風なトムスク中継収容所の投げやりな沙汰
・アレクサンドロフスコエ管区指揮官が泡を食って、移送されてくる犯罪者達をひとまず隔離しようと川の真ん中に浮かぶ無人島であるナジノ島を選んだこと
この全てが重なった結果、ナジノ島の悲劇が引き起こされたのだ。
そこには中央と中継地、そして最終移住地とされた地方の間の相互コミュニケーションの失敗がある。
そして、ナリム地方の一党員であり新聞記者であるヴァシリー・ヴェリチコによるスターリンへの直訴によってナジノ島事件は中央の知るところとなる。「幹部からなる調査委員会」が設立され、調査が開始されると、この西シベリア・カザフスタンへの強制移住計画の破綻が次々と明らかにされていったのである。
調査委員会の聞き取り、調査によって数百人が移住者の分類から解放された。
だが、その人々は中継地トムスクへは戻されたが、誰も元住んでいた都市に帰ることは許されなかったという。
牝牛殺し
強制労働収容所における常習累犯の非情な世界でさかんにおこなわれた「牝牛殺し」という隠語で呼ばれた行為がある。
ジャック・ロッシ著『グラーグ案内』という書籍の中で、次のように説明されている。
ところが、ナジノ島ではこの「牝牛殺し」の行為とは別の、衝撃的な行為が行われた。
違いにみごとに一致する4つの証言がある。
そこに挙げられたのは「人肉食いたち」が女性に襲いかかり、乳房やふくらはぎを切り取ったといういくつかの例である。その女性たちのうちで生き残った者もいれば、傷口が原因で死んだ者もいたし、恐ろしい経験で「気がふれた」者もいた。
証言のうちの2つは、モスクワでたまたま一斉検挙に引っかかり、トムスクに、それからナジノに移送された「共産党幹部夫人」の例に特に言及している。「犯罪分子」は彼女の両乳房を切り取ったのだ。
共産党幹部の妻でさえも、ナジノ島に移送されていたという事実にはただ驚愕する。
だが、この事例があったからこそ「幹部からなる調査委員会」が人肉食いの調査のためにナジノに派遣されたと考えられるのは皮肉なことだ。
その女性の夫である共産党幹部は調査委員会に参加していたのだろうか。もしそうなら、どういう気持ちで妻の辿った運命に思いを馳せていたのだろう。その複雑さは想像を絶する。
結局、地元民の記憶に生々しく残るこの「共産党幹部夫人」が誰であったのかはとうとう突き止められなかった。
まさに防御不能の無法地帯。そこには法律も、人としての倫理に基づくルールも存在しない。飢えた人々が、ただ生きる為だけに文字通りの弱肉強食の世界を展開したのだった。
ナジノ島のこの事件は、総合的に言えば著者が言及している通りの微小な歴史の一例、「ミクロヒストリー」に過ぎない。けれど、この事件が起き、その内実がここまでむごたらしいものであった分だけ、その当時のソビエト権力が〝やらかした〟(ここではもう、〝やらかした〟と言うしかないような気がする)巨大な失敗が浮き上がってくる。
受け入れ態勢も整わないとわかっていながら、監獄のパンク状態を改善する為に、そして飢餓地帯から押し寄せる農民達を都市に入れない為に、都合の良いユートピア計画を立ち上げ、スターリンはそれを承認し、大きな国家的事業として百万単位の人の命を〝翻弄した〟。
しかも、元はといえば監獄のパンク状態も、農民達が逃げ出さざるを得ない農村の飢餓状態を作り出したのも、〝国家〟そのものだった。
当時のソビエト権力の人命軽視の度合いを考えると慄然とする。
ーーこの本は計2回通しで読んだのだが、読み終えるたびに、起こったことの非情さ残酷さと全ての規模の大きさに頭がクラクラする思いがした。
そして、このようなことは決して二度と起きないで欲しいと切に願う。
いや、絶対に、起こってたまるものか、と強く思う。
この本の内容は、かなりショッキングな要素を多分に含んでおり、「何でわざわざそんな本を読むのか」と思う人もいるかもれない。
だが、私はこのような残酷な歴史書を積極的に読む。
その理由は、「知る」ためだ。
歴史上、過去に実際にあったことに対しては目を背けてはいけないという信念のようなものがあって、実際恐る恐るどきどきしながらではあるが、眉をひそめつつページをめくる。そして、その凄惨な事実におののきながら、ひとつひとつを胸に刻む作業をする。
そんなことをしても、なすすべもなく死んでいった無辜の人々の魂を慰めることなど出来るものではないとわかってはいるけれど、読書の間だけでも、その人達の状況を想像し、想像の中で出来るだけその人達に寄り添い、一緒に苦しみ、体験する。それは自分なりの、その人達の魂に対する祈りでもある。
そしてそれもまた、私がこのような種類の本を読む目的のひとつだ。
「知る」ということは、「一歩踏み出す」力を与えられるということだと思う。
この『共食いの島』は、訳本の発売が2019年と比較的新しい本である。実は、ナジノ島事件はソ連によって60年近くも封印されていた。ペレストロイカによって情報が開示され始め、我々西側の人間にもロシア(旧ソ連)の情報庫に手が届くようになった。ロシア側の情報開示活動をしている人達の協力によって著者ニコラ・ヴェルトはこの事件にたどり着いたという。そして膨大な資料を読み解き、大量の情報を掬い上げてまとめ、1冊の本に編み上げたのだ。
それにはただならぬ労力と忍耐力がいったことだろう。でもお陰で私のような一日本人も、過去にこのような事実があったことを知ることが出来たわけだ。ありがとう、お疲れ様ですと言いたい。
遠い過去の悲惨な出来事ではあるが、これを読み通した後は、何故か未来へ一歩踏み出したような気持ちになった。不思議なことだけれど。
このような事態は、二度と引き起こされてはならない。そのためには、どのような過程を経てこれが起きてしまったのか頭に入れておくことは有益だと思う。
それゆえに、歴史を学ぶことには大きな価値がある、と私は考えている。