【長編小説】 初夏の追想 9
――裕人、という名前は……ゆたかで、満ち足りている。ゆるやか、のびやか、寛大で、広い心の持ち主になるように……そんな人になるように願ってつけたものなの。
犬塚夫人の柔らかな声が、リビングに優しく響いていた。彼女は自分の息子たちの命名について語っているところだった。三人の息子の名前は全部自分がつけたものだとうそぶき、フレアースカートを履いたすんなりとした脚を、優雅な身振りで組み替えた。
彼女はある朝突然この離れの扉を叩き、ご挨拶にと言って上がり込んできた。家主の気安さというか、まったく遠慮する気配もなく、まるで我が家のようにもの慣れた様子で入ってきた。玄関に出て応対した祖父は、誰にでもそうするように鷹揚な態度で彼女がするりと上がり込むに任せ、リビングに通すと、コーヒーを入れに台所のほうへ行った。彼女の傍らには、よく似た顔の息子がうつむき加減に一定の距離を保って侍っていた。
私にはそれが、数日前にひとりで挨拶に訪れたあの少年であることが信じられなかった。近くで見ると母と息子は呆れてしまうほどそっくりで、まるで彼女がひとりでこの息子を生んだのではないかと思うようだった。けれど母親のほうは朗らかで何の煩いもなく、時折少し気怠そうなほどの余裕を見せるのに対して、息子のほうは、まるで母親の付属物ででもあるかのように押し黙って、下を向いたままひと言も言葉を発さないのだ。
……ふふ、そうしたら、名前の通り、いえ、それどころか、それ以上になって、まったく世話のかからない、如才ない子に育ってくれたわ。
犬塚夫人の話は続いた。祖父は私たちにコーヒーと甘い菓子を出すと、そそくさとリビングの端の自分のアトリエスペースに戻って行ってしまったので、自然と私がひとりで犬塚母子の相手をすることになった。犬塚夫人はそれにはかまわずに、自分の話を続けた。
……裕人は体格もよくて社交性があって、集団の中でまとめ役になるようなタイプなの。小学校のころから、クラスでは毎年学級委員長を務めていたわ。最上級生になると、もちろん生徒会長ね。周りが皆裕人を慕って、頼りにして……いわゆる人気者だわね。
社会に出てからも、それは変わらなかったわ。裕人は夫の会社に入ったわけだけれど、それはもう人当たりがいいものだから、皆から好かれましてね。頭が良くて、面倒見もいいし、上司からさえも頼りにされていたのよ。社長の息子だからといってやっかまれることもなく……上手なのね、世渡りが。とにかくいつどこにいても、まったく心配のない息子でした。
――次男は柊二といいます。その字の通り、ひいらぎよ。西洋でクリスマスのリースに使われるように、魔除けのイメージが強いわね。でも、漢字の元の意味から言えば、この〝柊〟という文字には、〝木〟と〝冬〟の二つの構成要素があるの。大地を覆う木と、冬……。この〝冬〟には、季節の冬を表す意味と、もうひとつ、〝糸の最後の結び目〟という意味があるんですって。体が弱くて線の細い子だったから、色々な厄災から守られ、芯の強い子に育ってくれるようにと思ってつけたのよ。〝最後の結び目〟っていうニュアンスも気に入ってた。私はもうこの上夫とのあいだに子供を持つ気はなかったから。
「でも、あとになって守弥君が生まれたんですね」
私は笑って言った。夫婦がともに歳を取ってから思いがけなくできた子を彼女が恥じなくていいように、わざと先手を取って冗談めかした口調で言ったつもりだったが、なぜか犬塚夫人は急に深刻な顔になってうつむいた。
「そうね。予想外でしたわ」
苦しそうな表情になってそれだけ言うと、彼女は次男の話の続きを始めた。
柊二は願い通りに、健康体に育ってくれました。色の白さと華奢な体つきは変わらなかったけれど、それでも一度も学校を休むことなく無事卒業しましたし、冬の寒い最中でも、あの子が風邪をひいたのを見たことがありませんでした。……私に似たのかしらね、少し神経質なところがあって、ときどきひとりでふさぎ込んでいることがあったけれど……でも、成長するにつれてそんなことも少なくなって……。社会に出て一人前になったんですわ。
でも。
「でも?」
私は聞いた。守弥の二番目の兄が、いまここの別荘に来ていないことは、少し気にかかっていた。
柊二はいま日本にいないんですのよ、と犬塚夫人は言った。
一年前に、フランスに行ってしまったんです。家族の反対を押し切って……。折角就職もして、順調にやっていると思っていたのに……。何だか、ビジネスをやるんだとか何とか言って、ひとりでパリに飛んで行ってしまったの。
「では、いまパリでビジネスを?」
私は聞いた。犬塚夫人はかぶりを振った。
いいえ。いいえ、あの子は……。あの子は行方不明なんですのよ。どこで何をしているのかわからないんです。パリへ発った日から、ずっと連絡が取れないんです。家族がどんなに心配しているか、わかっていないんだわ。あの子は昔からそういうところがありました。ひとりでふらっと家を出て行って、数日帰って来ないということも、何度もあったんです。ええ。自由人、と言ってしまえば簡単ですけれど、ねえ、母親の私の気持ち、おわかりになる? 胸が潰れそうですわ。あの子にはあの子の事情があるのだろう、と言う人も中にはいるんですけれどね、そんなことをどうして納得できますか? ……生きているのか死んでいるのかもわからないんですよ。夫はとうの昔に諦めてしまいましたけれどね。あの人はすぐに匙を投げるんです。でも私はそんなことはできないわ……。どうしてそんなことができるでしょう。
「母親ですものね」
私は慰めるように言った。犬塚夫人はうなだれて、しきりにハンカチを自分の鼻に押し当てていた。しなやかな、育ちのいい女性の仕草だった。
――あの子のことは、ずっと私の中で尾を引いています。あの子の安否を知ることなしに死ぬことになるのかしらとね……。何という親不孝者でしょうね……。私も夫のように、あの子に見切りをつけるべきなのかしら。いつかそうすることができれば、どんなにいいかと思っているんですけれどね……。
そうひとりごちる彼女の目尻には、涙が光っていた。長い人生のあいだに深く刻まれていった、カラスの足跡にそっくりの皺の中に、涙は吸い込まれて見えなくなった。
「でもいま、貴女の側には守弥君が」
私は何とかその場を取り繕おうとして、言った。次男の話をすることによって記憶の襞に引っかかったまま思い出の淵に沈み込んでいる彼女を、現実に引き戻そうとした。
ええ。守弥はいつも側にいてくれます。と、言うより、私は守弥の側にいなければならないんです。お気づきかもしれないけれど……。あの子は少し、難しいところがあって。日によって調子が良かったり悪かったりするのですけれど……。調子の悪い日は、私がいないと絶対に駄目なんですの。ほんのちょっと、五分でも私の姿が見えないと、あの子はおかしな行動に出ます。あるときは大声を上げますし、またあるときは部屋の中をそわそわと早足でいつまでも歩き回ったり……。私の姿を探して家じゅうのドアをバタンバタンと開けたり閉めたりすることもあります。宥めようとする家政婦さんを平手で叩いたときには、青くなりましたわ。
そんなわけで、私は四六時中この子を見ていなければならないんです。自由になれるのは、守弥が絵を描いているときぐらいでしょう……。そのときだけはさすがにこの子も自分のしていることに熱中しますので、私は開放されます。眠るときは一緒です。夜、守弥は私の寝室に来て、一緒にベッドに入ります。あの子は私の寝間着を握って、どこへも行かせないようにしないと眠れないのです。
私は思わず後ろを振り返って、守弥を見た。少年はいま、ひとり掛けの椅子に寄りかかって脚を組み、単行本の小説を読んでいるところだった。月と六ペンス。サマセット・モームが画家ゴーギャンの人生に着想を得て書いた傑作だ。守弥はいつの間にかそれを私の祖父の書棚から引っ張り出してきて、眉間に皺を寄せ、ずっと読み耽っているのだった。
守弥は私の視線を感じても、我関せずとばかりに本の上から目を動かさなかった。先ほどまでの、犬塚夫人と私の会話は聞こえていたはずだが、彼はまったく意に介さずに、相変わらず眉間に皺を寄せたまま、自分の読書の世界に没頭しているように見えた。
集中力が人一倍なんですのよ、と、犬塚夫人が言った。