![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171953507/rectangle_large_type_2_6c528d7a64f7418e49d393cda36ca659.png?width=1200)
引越し、本を読んだ日々
書くことを続けるために、毎日、原稿用紙7枚分の文章を書こうと決めた。題して、「2800」第9弾。
サムネの画像は、夫の日課、日めくりカレンダーにイラストを書いたものから日々拝借。
しばらく書けていなかったけれど、いくつかの本も読み終わったことだし、再開しようと思う。
やっぱり毎日2800字を書くことはそう簡単なことではない。書くことが義務のようになることも避けたかったから、忙しい時期はちゃんと休むことにした。その代わり、文章のインプットをしようと本を読んだ。
昨年から今にかけて、村上春樹の文章に出会えたこと、そしてレイモンド•カーヴァーの詩に出会えたことは、私の毎日を鮮やかにした。
レイモンドカーヴァーの詩。
こんなにも目の前が青に染まる文章を、私は知らなかった。ひとつひとつが、目で見るよりも鮮やかになる、そんな文章が私は好き。「ウルトラマリン」と題された本の一つ目の詩は、まさしくその名の通りの詩だった。青。真っ青。鮮やかな、光のある青だった。初めて読んだときからその光景が頭から離れない。海を前にして、上から日光が思いっきり差したかのような、海面で反射した光が目に届いたようなまぶしさを、カーヴァーの詩、文章から体験できたのだ。本は図書館で借りたのだけれど、本棚で読んだとき、薄暗かった図書館が一瞬、明るくなったように思えた。
いつか私の家の本棚にも、カーヴァーの詩集を集めたいと思う。ささやかだけれど、きっとこれは確実な夢だなあ。
村上春樹の文章は、いつなんどきでも読めるからすごい。ぐんぐん前に進んで、気付いたら底の底、もうよじ登れないんじゃないか、ってくらいのところにいるから驚く。でもちゃんと、地上へ戻ってくる。そのとき、私が文章を書かなくてはいけない理由を思い出す。落ちることだけが、思考ではないのだ。よじ登らなくてどうするのか、そんな風に思うのだ。
書こうとすると、一つのことをぐるぐると考えて、ときにすっぽり穴の中にハマってしまうことがある。くよくよループに入ってしまったその時に、元気が出ないその時に、村上春樹の文章はなぜだか読めるのだ。薄暗いバーの中でマスターに話を聞いてもらってるような気分になる。解決はしなくても、どこか癒やされて、不思議な世界にフワッと酔って、いい気分で家に帰るような、それでいて少しだけ大人になれたようなそんな気持ちになるのだ。
書くことをやめることも、私にとっては大切だったのかもしれない。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171952318/picture_pc_e3e452c71811e9cbf30fbd8f0f0ee8d0.png?width=1200)
この1週間の間に私たち夫婦は引っ越しをして、今は新しい家でこの文章を書いている。以前、「深刻すぎるよ展」でも書いたけれど、引っ越しをしてから私の中の猫が案の定、大暴れしている。環境の変化にとことん弱い私は、半分ノイローゼ気味になってしまった。情けないけれど、ほとんど毎日些細なことでイライラが止まらなかった。
特に家と電車の距離が近く、音が大きくて眠れなかった。
ここ2日くらいでやっと眠れるようになって、少しずつイライラが落ち着いてきた。いまだにトイレにも馴染めてない。昔飼っていた猫も、引っ越しをするとしばらく大人しく丸まっていて、恐る恐る新居のフローリングに足を踏み出していたのを思い出す。
これでも私はふつうの人よりかは引越しの経験が多い方かと思う。振り返るとこれで8回目だった。家庭不和があったこと、新卒で一人暮らしを始めたくせにすぐやめたことなど、色々なことが重なって、これまでたくさんの引っ越しをしてきた。マイナンバーに「変更が多くて住所が書けません」と言われて、再発行に1ヶ月かかると言われたときはさすがに、何のための身分証?となった。そのときペーパードライバーの私は、ピカピカの運転免許証だけが身分証の代わりになって、やっぱり免許証がないとダメじゃんかよと思った。
そんなふうに度重なる引っ越しを経ても、やっぱり環境の変化は苦手なのだ。
とにかく人、物、周囲の環境にどれだけ自分を馴染ませられるか、私は気付くとそればかり考えて生きている気がする。
そのせいで、時々、「みなみは何がしたいの?」とか聞かれてしまうと拍子抜けしてしまう。実はみんな、獲物を捕まえるかのように、欲しいものを探して、自らビームのようなものを外へ向けて放っている。対する私は、みんなが放つビームをどうやってキャッチできるか、はたまた、悪意のあるビームにはどうしたら当たらないのか、そんなことばかりを考えている。
ビームを捉えることが生きる目的になってしまっているのだから、「どうやって動きたいの?」とか「何が楽しいの?」と言われてしまうと、はて、、?となってしまうのだ。
私が楽しいと感じる瞬間は、1人きりの瞬間で、1人きりで美味しいものを食べて、1人きりで出かけているとき。
それは外のビームを気にしなくていい瞬間だから。
「休みの日?まあ人に会ってばっかりですね」と言う人を見ると、なんて強靭な身体の持ち主なんだろう、そんな風に思っていた。けれど、みんな、自分の周りに張り巡らされているビームなんか気には止めていないし、むしろ自ら外にビームを放つことができる、そんな人たちなのかもしれないと、最近では理解をしているつもりでいる。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171952628/picture_pc_cbba1f30598aeda6b619caff5976bb7f.png?width=1200)
最近、訳があって夫といつもなら着ない服を着て、外に出かける機会があった。引きこもってばかりの私だったけれど、おめかしをして出かけるのは意外と気分が上がるもので、「なんか楽しいな、なんか嬉しいな」とかかとのヒールを鳴らしながら歩いた。
この、嬉しい、と思うその感情。その瞬間。
それこそがきっとビームを気にしていない瞬間で、もっとそういう瞬間を味わいたいと思った。もっと味わいたい、もっとこんな瞬間が欲しい、そういう風に視線が外を向けば、気がつけば好きなもの、素敵なものを探そうとビームが内から外へ出ていて、あれ、こんなに簡単だったんだ、って呆気にとられてしまう。
こんな風に気付きがあったとき、「良いものを探せるようにならないといけない」と、手のひらを返したかのように意固地になる。そうすると、大抵そんな決意は長く続かなくて、「やっぱりダメな自分」を何度も何度も見るハメになる。そんな自分を、うまく生きられない自分を、私はやっぱり認められない。
見かねた夫は「50点で充分すごい」と言った。
「人は成長するんだ」そうやって付け加えて。
私は今の自分をどこかで「100点だ」と思いたいのかもしれない。「50点の私」に出会ってしまったら、そんな自分に目を向けてしまったら、自分が自分の価値を見出せなくて、崩れてしまいそうだった。私はいつか成長する、今はダメでもいつかできると、そうやって信じてくれる人が今の私にはいるのだと認識する。100点の自分を、誰にも迷惑をかけない「便利な私」を、大人にとって「都合のいい子供」を、必要とする人はもう、いないのだ。
私に向かってくるビームはもうない。
私はビームに向かってアピールしなくていいんだ。
たくさんの「ほしい」「なりたい」そんなビームを自分の内から外に向けて、いつかそれを手に入れよう。銃を構えて狙いを定める。狙いを定めたその身体がブレないように全身を鍛えて、ちょっとやそっとのことで動揺しない心を身に付けたい。いつか撃ち抜くその日まで。
今日も文章を書いて、穴からよじ登ってきたよ。2800。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171952581/picture_pc_f91199233b8ea78fdf2e026277b0491a.png?width=1200)
いいなと思ったら応援しよう!
![深瀬みなみ](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171467406/profile_23d4c085e5e66b33da6c9297091f2920.jpeg?width=600&crop=1:1,smart)